オリンピック4位という人生BACK NUMBER
大林素子は"戦犯"の名を背負った。
<オリンピック4位という人生(6)>
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byPHOTO KISHIMOTO
posted2020/02/23 11:40
1988年ソウル五輪のグループ初戦でソ連に勝利した大林(当時は10番)ら。日本に敗れたソ連は予選を通過後、金メダルを獲得した。
格下ペルーに負け、中国にも。
そして、金メダルを予感させる、その激勝から7日後、日本はメダルをかけた準決勝で格下のペルーと戦った。
試合は予想外にもつれた。最終第5セット、日本は先に13点目を奪い、メダルまであと2点と迫った。そこから逆転負けした。
最終盤の攻防の中、大林は2本のスパイクしか打てず、決まったのは1本だけだった。予選で痛めた足首の影響か。心の隙があったのか。何が足りなかったのか。
「一度も負けたことのない相手なので自然とこちらは受け身、相手は捨て身になっていたのかもしれません……。でも私、試合はほとんど記憶がなくて……、最終セットの終盤にいつもなら取られない反則を取られたこと、最後は私の前にボールが落ちてレシーブしようと思ってもできなかったこと、それしか覚えていないんです」
はっきりしているのは、金メダルの可能性が消えて抜け殻のようになった自分たちがその後、中国との3位決定戦にストレートで敗れたことと、4位に終わった夜、選手村の食堂にすら行けず、部屋にこもって食べたレトルトカレーの味気なさだけだ。
年間360日、全てを捧げたのに。
帰国した成田空港の到着ロビー、21歳のエースを待っていたのは「なぜ格下に負けたのか?」「なぜエースたるあなたのスパイクは決まらなかったのか?」というメディアの詰問と世間の冷たい視線だった。
「私はエースでしたから、聞かれるのは当然です。でも、本当にプライベートもなく、移動日をのぞいて年間360日、全てを捧げましたから。これで勝てないなら誰が勝つんだっていうくらいに……」
あれだけやったのに……。自負があるほど「なぜ」の問いは迷宮をさまよった。
大林はその答えを求めるように日の丸を背負い続けた。実業団ではベスト6、MVPなどタイトルを総なめにし、日本で並ぶもののいない大エースになっていった。
悲劇は自身の絶頂と時代が逆行していたことだろう。キューバやブラジルのパワーバレーが台頭し、各国にプロリーグができていく中で、いまだ「東洋の魔女」の幻影を追いかけた日本の実業団主体の構成、つなぎと根性のバレーは取り残されていった。
'92年のバルセロナはブラジルに準々決勝で完敗し、5位に終わった。世界の流れを肌で感じた大林はプロ選手登録を求めたが、所属先に受け入れられず解雇を言い渡される。その逆境からイタリア・セリエAへ移籍する道をたぐった。プロ化への最初の一石として自らを投じたのだ。
それでも大林と日本バレー、大林と時代の流れはすれ違い続けていく。
'96年のアトランタ五輪を迎えたころには世界との差はさらに開き、もう日本にとってメダルは遠く霞んだものになっていた。
大林もそれを知っていた。
「私が見せてあげられるものを全部見せて、私が勝たせてあげようと。何かを後輩たちに残せたらと、そういう気持ちでした」