オリンピック4位という人生BACK NUMBER
長崎宏子の涙は尽きたのか。
<オリンピック4位という人生(5)>
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byJMPA
posted2020/02/09 11:40
ロサンゼルス五輪200m平泳ぎの予選を通過するも下を向く長崎宏子。決勝に進出したが4位に終わった。
がんばれの大合唱の中で、浮いた。
「ロスの前は、映画を観にいったら見知らぬ人に『映画なんか観てていいんですか?』と言われたり、休みで外に出かけたら『体を休めていなくていいんですか?』と言われたり、まわりの人は悪気なく言っているんですけど、私はそれで水の中にいないといけないんだと感じてしまいました。プールでもカメラマンの人たちにグルッと囲まれて、友達と話して笑った瞬間の大口を開けた写真を載せられたり。だからあまり笑わなくなりました。ただ水の中に潜っている時だけはカシャッ、カシャッというシャッター音も聞こえなかった」
少女はいつしか水の中に閉じこもるようになった。そうするうちに大好きだった水が重く重くなっていったのかもしれない。
永遠にこなければいいと願った決勝のレース。長崎は2レーンに立った。
「予選のあとは私もコーチも何を修正していいかわかりませんでした。だから、とにかく、がんばれと。もうそれしかなかったんですよ。でもね……、とにかくがんばると最後にスタミナが切れてしまうんです。私たちの世界の用語で『浮く』と言う状態なんですが、そうなってしまうんです」
日本競泳が低迷していた時代、誰もが長崎宏子という人間そのものよりも、その向こう側にあるメダルを見ていた。
がんばれ、がんばれの大合唱の中、擦り切れそうな少女はスタート台に立った。
最初の50mのターンはトップだった。
『長崎、先頭! 長崎、快調!』
『非常にいいですねえ。このままいって欲しいですねえ』
実況も解説も、日本時間早朝にテレビに食い入った人々も彼女の内心を知らない。150mのターンは2位だった。しかし、そこから彼女の上半身はあまり水に潜れなくなった。文字通りに“浮いた”のだ。
「人との接触が怖かったんです」
後続の水音がどんどん迫る。
『長崎、伸びない! 遅れた! 長崎、危ない! 4位に落ちた、4位に落ちた!』
彼女にはそうなるだろうことはわかっていたが、人々はここで初めて現実を知る。そして何の躊躇もなく、さっきまでのがんばれ大合唱をため息の洪水へと変えた。16歳の少女にはそれが怖かった。
「だから、もうレースが終わった瞬間からずっと泣いていて何も喋れないんですけど、何か言わなきゃということで『すいませんでした』と言うしかなかったんです。あの時の“ひろこちゃん”、かわいそうだったなって、そう思うと泣けるんです」
それから長崎はずっと泣いてきた。あのレースを思い返すたび、10年ほど前に区切りをつけるまで、深い傷口から血を流すように、涙をこぼしてきたのだという。
「帰国して、がんばったなと言ってくれた人もいたんですけど、耳に入ってこなかった。称賛されるに値しないと、誰よりも自分が一番そう考えていたので。何も言われたわけじゃないのに、どこかで『この人は4位になった人、メダルを取れなかった人だ』と見られているんじゃないかと思って、人との接触が怖かったんです。もう水泳をやめようかと思ったんですけど、まわりは次のオリンピックこそ、という雰囲気になっていて、誰にも言えませんでした。かといってモチベーションも上がらなくて……」