オリンピック4位という人生BACK NUMBER
長崎宏子の涙は尽きたのか。
<オリンピック4位という人生(5)>
posted2020/02/09 11:40

ロサンゼルス五輪200m平泳ぎの予選を通過するも下を向く長崎宏子。決勝に進出したが4位に終わった。
text by

鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph by
JMPA
2020年五輪イヤーにあたって、Number989号から連載スタートした『オリンピック4位という人生』を特別に掲載します!
長崎宏子の涙はようやく止まったという。それまではあのロサンゼルスでの決勝レースに話が及ぶとどうしようもなく泣けてしまったのだが、40歳を越えたくらいから、向き合えるようになったという。
「たまに講演など依頼されることがありまして、どうしてもあの時のことを話さざるをえなくて、そうすると涙が出てきちゃう。だからあまり話したくなかったんですけど、ここ10年くらいで受け入れられるようになってきたんです。今はどこにいても素でいられる。本当にね、アラフィフって最強です。50歳になった途端に世の中、怖いものが何もなくなったんです」
今年7月で51歳になった長崎が笑う。
ただ、成熟した強さのうらに一瞬、ほんの一瞬だが、あのころのままの透明感や少女性が垣間みえる。それが不思議だった。
「終わったときが怖かったんです」
1984年7月30日、南カリフォルニア大学のプールに降り注ぐ陽射しは人も水も建物も黄金色に染めていた。
200m平泳ぎ・決勝。
だが、スタート台に立った長崎の心は、辺りを取り巻く幸せな景色とは対照的だった。
「このままレースが一生こなければいいなと、もしきたとしてもそのままずっと終わらなければいいなと、そう思っていました。終わったときが怖かったんです」
その数時間前におこなわれた予選で長崎は自己ベストより4秒以上も遅い、2分34秒46だった。金メダル候補にとって、経験のない5位での決勝進出だった。
「国際大会でも大体は1位、2位で決勝に進んでいたので動揺しました。平泳ぎはすごく難しくて、手と足の返しのちょっとしたタイミングのズレで3秒、4秒変わってしまう。修正もすぐにはできない。だから予選から決勝でどんでん返しはまずないんです。金メダルを期待されて、銅でも取れればいいけど取れなかったらどういう顔して日本に帰ったらいいんだろうとか、どんなコメントをすればいいんだろうとか、そういうことを考え始めてしまったんです」
つまり、彼女は自分が勝てないだろうと知っていた。プールへ飛び込み水に触れた瞬間、わかってしまったのだ。
いつから水はこんなに重たくなったのか。
それでも彼女はスタート台に立たなければならなかった。
長崎は小学一年生のとき、秋田に初めてできた民間のスイミングスクールに入った。水に入るのが大好きな少女はクロールや背泳ぎは人並みなのに、なぜか平泳ぎだけ特別に速かった。小学六年生で日本選手権に優勝し、結果的に日本はボイコットしたが、1980年モスクワ五輪の代表になった。
ロサンゼルスの前年には本番と同じプールで開催されたプレ五輪で2分29秒91の、その年の世界最速記録で優勝した。
そうなると、もう田舎町の水が大好きな少女ではいられなくなった。