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ピレスが語る、あの時のアーセナル。
ベンゲルの日本式指導と最高の仲間。
text by
栗田シメイShimei Kurita
photograph byWakatake
posted2020/01/26 11:00
来日したピレスは、優しい表情で熱心に子どもたちを指導していた。
ベンゲルが植え付けた日本式の教育。
――ベンゲル監督がクラブに与えた影響というのはどのようなものでしたか?
「アーセンがクラブの雰囲気を変えたんだ。彼の存在がアーセナルの歴史を変えたともいえる。アーセンがクラブに来た当初は誰もが彼のスタイルに戸惑ったはずだ。彼は私たちに規律を植え付けようとした。それは言葉にするとイージーだが、非常に難しいことだ。
彼は私たちにこんなことを言い切ったんだ。『日本人のような文化を尊重し、教育をしていく』と。そのためには、時間を守り、チーム内での規律を破ることは許されない、とね。最初は正しいかどうかわからなかったが、明確な結果が出はじめたことで、誰もが彼の正しさを理解することができた」
――あれだけ多国籍の選手が揃うチームで、日本式の教育を落とし込むというのは難しそうですね。
「その通りだよ(笑)。個性豊かな面子をまとめるのは並大抵のことではなかった。アーセンの人間性と、結果を出し続けることでチームは少しずつまとまっていったんだ。
アーセンは『日本で過ごした2年間で多くの教育を学んだ。それをこのチームに取り入れることでチームは変わる』と繰り返していた。練習に遅刻をする選手もいなくなり、取り組む姿勢も大きく変わった。それから私たちはタイトルを争えるチームへと変わっていったんだ。アーセンが日本で受けた影響は、さぞ素晴らしいものだったのだろうと想像できた」
無敗優勝メンバーとは「通じ合っていた」
――アルシャビン、ナスリ、ロシツキー、カソルラ、エジルなどあなた以降のアーセナルのゲームメーカーにとっては、常に比較対象としてピレスという存在がいました。
「ありがたいことだけど、人それぞれプレースタイルは違うから単純な比較はできないよ。私は左サイドから中にカットインするプレーが特徴だったけど、いま名前が上がった選手はみんなタイプが違う。彼らは彼らにしかない特徴を持っているからね」
――MFながら、クラブ在籍時にプレミアリーグで60得点以上を記録していますね。
「私はプレーメーカーでありながら、アタッカーでもあった。当時のチームでは戦術的に、私や両サイドのフレドリック(・ユングベリ)、シルヴァンといった選手の得点機会が多かった。絶対的なストライカーだったティエリが、サイドに流れることを好む選手だったから、流動的に彼より中に入っていくことも珍しくなかったんだ。その流動性は規律を重視し、高い組織力と個人技のバランスがとれていたからこそ成立した」
――無敗優勝を達成した('03-04シーズン)当時のチームの連携は、サッカー史上でも最も美しいという見方もできるかと思います。
「あのチームの特徴に、私生活でも非常に仲が良かったことが挙げられると思う。お互いをよく知るからこそ自然と意思疎通がスムーズになり、感覚も近かった。特にティエリと私は非常に親密だったし、それは今も変わらない。彼とは頻繁に食事に行ったし、プライベートでも多くの時間を過ごしたよ。最近はカナダのチームの監督に就任したね。脚光を浴びているMLSだから、彼のキャリアにとっても素晴らしい経験になると思う」
――アンリ、(デニス・)ベルカンプとの予測がつかないコンビネーションは「なぜこんなプレーが可能なのか?」と不思議に思うほどでした。
「言葉にするのは難しいけど、感覚的な部分で私たちは通じ合っていた。ティエリやベルカンプがどこならボールをもらいやすいのか、どの位置でどんなパスを送ればゴールにつながるか、がわかっていたんだ。ゴールまでの道筋が見えていたし、その感覚を共有できていた。そういった意思疎通の力が大きかったね」