オリンピック4位という人生BACK NUMBER
<1964東京 フェンシング団体4位>
田淵和彦「敗戦に抗い続けた男」
text by

鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byKYODO
posted2020/01/12 11:30

1964年10月、国立競技場で行われた開会式で最後に入場した日本選手団。
メダルを取れなければこんなものか。
一番手はエース大川だった。団体の4人のうち、2番手の田淵と合わせて先に2勝する算段だったが、異変が起こっていた。「動きが全部流れてしまう。バネのようだった大川の筋肉が、体が前に出ていかないんです……」。
初戦を落とした。田淵はパリの寮で同部屋だった親友とも剣を交え、2勝を挙げた。しかし頼みの大川が力尽きたように3敗を喫する。4勝9敗で日本は敗れた。
すべてが終わった後、記念会堂に彼らを取り巻く報道陣はほとんどいなかった。
「寂しかったですよ。メダルを取れなければこんなものかと……。でも、私はメダルそのものというより勝った証が欲しかった。やはり弱かったんです」
4位。その手に、幼い頃からの敗北感を消し去る重みを感じることはできなかった。だから田淵はこの戦いを終わらせなかった。
足りなかった「科学としての見方」。
オリンピック後、就職していた松下電器の退社を決意した。創業者・松下幸之助との入社面接が思い出された。
「君は、なぜうちに入りたいんだ?」
「はい。私は日本一が好きなので、日本一の会社にきました」
そう答えると、松下は愉快そうに笑った。それで内定だった。翌日、芦屋の松下邸に呼ばれ、抹茶を出された。「心得がないです」と正直に言うと松下は「お前が美味しいように飲んだらええ」とやはり笑っていた。
思い入れのある会社だったが、田淵には指導者となり勝てる選手を育てるという使命があった。母校・同志社大で工学部の教授となり、フェンシング部の監督を務めた。
「一番足りないのは科学としてのスポーツの見方でした。海外に出た自分がそれを理論化、体系化していかないといけない。そうしているうちに徐々に太田のような選手が育って、結果を出してくれたんです」
この国を外から見て、一から勝利への道をつくりなおす日々の末、2008年北京五輪、同志社大の教え子・太田雄貴が日本フェンシング界に初のメダルをもたらした。
令和元年の春、田淵は競技への長年の功績が認められ、瑞宝中綬章を受けた。その手に重みを感じることができた。
「太田や今の選手にはもっと古きをたずね、新しきを発掘してもらいたい。今度の五輪は勝った負けただけでなく、この競技を深く知ってもらえるものになってくれたらと……、そう願っています」
あれから55年、ついに勝利の証を天皇から授かった田淵は言った。
気づけば東京に2度目のオリンピックが近づいていた。
田淵和彦(フェンシング)
1936年10月15日、兵庫県生まれ。同志社高校、同志社大学を卒業し、松下電器に入社。1960年ローマ、'64年東京五輪に出場。'76年モントリオール、'84年ロサンゼルス五輪でフェンシングの代表監督を務めた。2019年、瑞宝中綬章を受章。
◇ ◇ ◇
<この大会で日本は……>
【期間】1964年10月10日~10月24日
【開催地】 東京(日本)
【参加国数】93
【参加人数】5,151人(男子4,473人、女子678人)
【競技種目数】20競技163種目(この年から柔道、バレーボールが追加)
【日本のメダル数】
金16個 三宅義信(ウェイトリフティング)、バレーボール女子 など
銀5個 鶴見修治(体操男子個人総合)など
銅8個 円谷幸吉(陸上マラソン男子)など
【大会概要】東京は1940年の開催地となるも、戦争の影響で開催中止に。念願の'64年大会は、戦争からの復興を印象づけた。男子マラソンではアベベ(エチオピア)が2大会連続の金メダル。日本女子バレーがソ連との全勝対決に勝利し、金メダルを獲得。「東洋の魔女」の活躍に日本中が熱狂した。
【この年の出来事】東海道新幹線が開通、王貞治シーズン55本塁打の新記録を達成。
