甲子園の風BACK NUMBER
甲子園以外の球場が使われた甲子園。
堀内恒夫は3回戦まで全て西宮球場。
text by
田澤健一郎Kenichiro Tazawa
photograph byHideki Sugiyama
posted2019/08/21 07:00
甲子園という球場の特別さが大会の価値を支えている部分は大きいが、他球場の使用は選択肢としては現実的だ。
甲子園以外の球場を使った3回の大会。
だが、実は過去、甲子園球場が完成して以降の夏の甲子園、つまり選手権の本大会で、甲子園以外の球場が使用されたケースが過去3回あることはご存じだろうか。
その大会は1946年の第28回大会、1958年の第40回大会、1963年の第45回大会である。第28回大会は戦争直後で甲子園が占領軍に接収されていたことによる西宮球場での開催。
しかし、第40回大会と第45回大会は、記念大会で出場校が増えたことによる試合数増に対応する措置として、甲子園と西宮球場が併用された大会だった。
当時の夏の甲子園は、現在のような1県1代表校制ではない。
第40回大会の前年、第39回大会の出場校は23校。出場校が少ない一部の県の代表校は、隣県の予選を勝ち上がってきた高校と、甲子園出場を懸けて戦う地区大会を勝ち抜かなければ甲子園に出場できなかった。
たとえば「奥羽代表」は青森、岩手、秋田の3県の勝者、「東北代表」は山形、宮城、福島の3県の勝者といった具合。今では出場校が100校を超える埼玉、千葉も「南関東代表」の座を争う必要があったほど甲子園は遠かったのである。
3試合全て西宮球場だった堀内恒夫。
それが第40回大会は節目の記念大会のため47都道府県から各1校出場となり、前年の約2倍となる47校が出場。
試合数も増加したため、3回戦までの一部試合が西宮球場での開催となった。当時の甲子園は照明が1956年に導入されたばかりで、1日3試合消化が基本だった。
結果、代表校となるも甲子園で試合をする前に去らなければならないチームも出てきた。北海道が2校出場となり48校出場となった第45回大会も同様である。
有名なところでは、第45回大会の甲府商(山梨)。この年の甲府商は抽選の不運もあり、3回戦まで進出しながら、3試合全てが西宮球場での試合となった。当時、1年生外野手兼投手だった堀内恒夫(元巨人)は、後に甲子園でプレーできなかった残念さをメディアで語っている。