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「やっぱり甲子園には行きたかった」東海大相模・菅野智之が振り返る神奈川大会決勝“キツくて死にそうだった169球”
text by
鷲田康Yasushi Washida
photograph byKiichi Matsumoto
posted2021/08/12 11:04
東海大相模のエースとして活躍するも、甲子園出場はかなわなかった現巨人の菅野智之。甲子園への特別な思いを振り返る
「また野球やらなくちゃいけないんだ」
基礎を重視し、伝統を守りながら、当時はタブーだった練習中の水分補給など、新しい情報もアップデートしていくのが貢流だった。走塁に重きを置き、相手のスキを見逃さない門馬の野球も、そうした伝統と革新が共存する原貢の野球を継承するものであった。
それこそが「相模の野球」である。
だが「相模の野球」は、選手にとっては厳しくしんどい。それも貢のDNAを受け継いできたからかもしれない。
決勝の相手は前年秋の県大会で負けている桐光学園だった。
「正直、あそこで(横浜に)勝って甲子園と思った自分たちもいました。やっぱり夏のライバルは横浜だってみんな思っていました。秋は桐光が勝ちましたけど、秋に比べて桐光は劣るだろう、決勝だったら勝てるだろうというのはありました」
ところが、その決勝で東海大相模は桐光学園に8対10で敗れた。13安打を打たれて菅野の夏は終わった。一発勝負の怖さ、慢心……。ただ、それ以前にこの決勝に臨んだ菅野には、もはや戦い抜くだけの気力も体力も残っていなかった。
「1ミリの涙も出なかったですね」
灼熱の横浜スタジアム。試合終了のサイレンを聞いた瞬間を菅野はこう振り返る。
「最後は勝ち負けじゃなくなっていました。それぐらいきつかったです。本当に全身痛くて、歩くこともキツいほどでした」
準々決勝もほぼ一人で投げ抜き、横浜との準決勝でも168球を投げていた。
横浜戦の終わった直後に菅野は門馬から「明日はリリーフでいく」と告げられていた。本人は6回ぐらいからマウンドに上がって「胴上げ投手になれるならいいな」くらいの気持ちで決勝の朝を迎えていた。
ところが当日になって「やっぱり先発でいってくれ」と急きょ告げられ、決勝でも169球を投げて完投した。
「キツくて死にそうで、結果、勝ち負けより、早く試合が終わって欲しかったという部分がすごく大きくて……。正直、投げられる状態ではなかったです。だからもう、何だろう……燃え尽き症候群じゃないですけど、その後、夏の大会が終わって(卒業後の)進路のことを考えるじゃないですか。プロに行くのか、大学に行くのか、それとも社会人に行くのか。でも、しばらくは考えることすら嫌でした。『また野球やらなくちゃいけないんだ。こんな辛い思いをして戦って』というのがありましたから」
「猛練習を生き残れない人はプロでも生き残れない」
それぐらいに高校時代の東海大相模での3年間は辛く、苦しい思い出しかなかった。
「ただ、僕は思うんです。(いまの自分には)相模時代に学んできたことが土台にある。辛い、いまだったら全く意味ないだろうなと思う練習とか。でも、イチローさんもおっしゃっていましたけど、そういうのって、遠回りに思えることは遠回りじゃないというか、意外と近道。まあ、それが当てはまるか分からないですけど、そういう一見無駄な練習をするからこそ、もっと効率のいい練習をしなくちゃいけないって考える。ただ漠然と何も考えていなかったら、やる意味があるのかどうかも考えない。だから量をこなすっていうのは大事なことだと思います。プロ野球の1シーズンは、長い日数をかけて試合を消化する。毎試合全力じゃ身体が持たないですし、7割、8割の力でコンスタントに結果を出せるようにならないとダメなんです。そのためには結局、自分の100%の水準も上げなきゃいけない。そういう長く続く戦いへの臨み方は、相模時代に練習の量をこなすことで覚えました。それが高校時代に、東海大相模の野球部で僕が学んできたことだと思います」
「振り逃げ3ラン」で宿敵を倒した緻密でスキを突く野球。厳しい上下関係の中で過ごした寮生活。そして日々、終わることなく続いた猛練習。
「そこで勝ち残れない、生き残れない人たちって、プロに来ても生き残れないと思う」
菅野が高校野球で、東海大相模で手にした結論だった。