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「やっぱり甲子園には行きたかった」東海大相模・菅野智之が振り返る神奈川大会決勝“キツくて死にそうだった169球”

posted2021/08/12 11:04

 
「やっぱり甲子園には行きたかった」東海大相模・菅野智之が振り返る神奈川大会決勝“キツくて死にそうだった169球”<Number Web> photograph by Kiichi Matsumoto

東海大相模のエースとして活躍するも、甲子園出場はかなわなかった現巨人の菅野智之。甲子園への特別な思いを振り返る

text by

鷲田康

鷲田康Yasushi Washida

PROFILE

photograph by

Kiichi Matsumoto

2007年の神奈川大会決勝で桐光学園に敗れた東海大相模。そのマウンドに立っていたのが、現在読売ジャイアンツでプレーする菅野智之投手。高校野球の思い出と、甲子園への特別な思いを語った記事をWebで公開します。(初出:Number983号 2019年7月25日発売、肩書などすべて当時)

果てなき努力は報われず、夢は叶わなかった。しかし、球界屈指の右腕が高校3年間を振り返った時、あのレジェンドが残した言葉に共感を抱いていた。

「走れ! 走れ!」と叫ぶ声を背中で聞いた。振り向くと三塁ベンチで監督の門馬敬治が一塁を指差し、塁上の2人の走者にも「回れ、回れ!」と手を振っていた。2007年夏。神奈川大会準決勝の東海大相模対横浜戦で起こった高校野球史上に残る「振り逃げ3ラン」の瞬間だ。打席にいた東海大相模・菅野智之は振り返る。

「あそこのフィールドで(ルールを)知っていたのはたぶん、うちの門馬監督だけだったと思います。『走れ!』って言われて僕も訳がわからなかったし、相手の横浜のキャッチャーを責めるのも違うと思う」

 3点を先制してなお4回2死一、三塁。カウント2-2からワンバウンドのスライダーに菅野のバットが動いた。球審が一塁塁審に確認して、右手を上げて「スイング」を宣告。コールに横浜ナインが一斉に一塁ベンチへと引き揚げ始めたときに、菅野は門馬の声を聞いたのだ。

「普通ならバッターはベンチに帰っちゃうんですけど、運よく僕がバッターボックスを出るか、出ないかの微妙なところで聞こえてきたんです」

 スイングしたボールを捕手がワンバウンドで捕球した場合は、打者にタッチするか一塁に送球しないとアウトは完成しない。いわゆる振り逃げのルールだ。訳も分からず半信半疑でベースを回る菅野も、何度も「これでいいのか」という風にベンチに確認しながら、ホームまで還って3点を追加した。結局、この試合を6対4で勝った東海大相模が決勝への名乗りをあげることになった。

祖父・原貢が作り上げた東海大相模

「門馬監督が以前に同じことをやられて負けたことがあり、ルールを覚えていたと聞きました」

 菅野は振り返る。

「門馬監督の緻密さというか、スキあらばというところだったと思います。特に走塁やトリックプレーにうるさく、相手の盲点を突く、スキのない監督さんでした。そういうのが相模の野球といえば、そうなるのかもしれませんね」

 東海大相模の野球の礎を築いたのは、菅野の祖父でもある原貢である。1966年から東海大相模の監督、その後は東海大野球部、東海大系列野球部総監督を歴任した。

「おじいちゃんは基本をしっかり教える人で、ランニングとキャッチボール、これをすごくうるさく言う人でした。その2つだけしっかりやっとけば野球は大丈夫だ、と。僕も小さい頃から教わってきましたし、本当にそうだと思います。自分が直接おじいちゃんの下で野球をやったことはないですけど、それが相模に伝わっているとしたら嬉しいですよね」

【次ページ】 「また野球やらなくちゃいけないんだ」

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