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「おやめなさい。ご両親が悲しみますよ」…31年前の日本ダービー・伝説の「ナカノコール」は“競馬が認められた”瞬間だった
text by
江面弘也Koya Ezura
photograph byAFLO
posted2021/05/27 11:03
アイネスフウジンの勝ち時計2分25秒3は、当時のダービーレコードだった
この年のダービーはメジロライアンの横山典弘とハクタイセイの武豊、ふたりの若手ジョッキーにスポットライトが当たっていた。そのなかで「三強」に数えられたアイネスフウジンに乗る中野栄治は成績も落ち込んでいた37歳の中堅騎手である。2着だった皐月賞の中途半端な騎乗に批判も集まり、乗り替わりの話もあった。そういう状況のなかで中野は馬を信じて逃げ、みごとに逃げきった。その中野を人々は大コールで称えたのだ。戦前から競馬を見ている解説者の大川慶次郎がしみじみと言った。
「こういうシーンは見たことがないですねえ。競馬というスポーツが大衆に認められたということでしょう」
番組が終わり、検量室に下りていった鈴木は、大久保房松に出くわした。前の年に調教師を引退した大久保はこのとき92歳。調教師として3度ダービーを制し、昭和8(1933)年には調教師兼騎手としてカブトヤマで第2回ダービーに勝っている。伝説のような大調教師に、鈴木は「ナカノコール」についてたずねた。
「あんな声援で迎えてもらえるなら、もう一度、乗り役をやりたいねえ。そしてダービーに勝ちたいよ」
大久保のことばが、競馬が社会悪と蔑まれた時代を馬とともに生きてきた、すべての競馬人の思いを代弁していた。
競馬学校の生徒が目撃した「ナカノコール」
「ナカノコール」につつまれたスタンドには揃いの制服を着た坊主頭の少年たちがいた。大久保房松とは対照的に、競馬ブームのなかで騎手をめざしているJRA競馬学校騎手課程の8期生だ。上村洋行、菊沢隆仁、後藤浩輝、小林淳一、高橋康之、橋本美純、横山義行、吉永護の8名である。
千葉県白井市にある競馬学校から電車でダービー見学にやってきたかれらは、とにかく観客の数に驚かされた。パドックではどの馬がかっこいいとかファン目線での話をしながら、ダービーに乗る先輩たちの一挙手一投足を見ていた。デビューしたらこの人たちと一緒にレースをするんだと思うと身が引き締まった。
レースはゴール前の厩舎関係者席で観戦した。騎手の卵の間でもメジロライアンが1番人気だった。ファンファーレとともに地鳴りのような歓声が響き、夢中で見ていたダービーはあっという間に終わった。そして満員のスタンドから「ナカノコール」が沸きおこった。8人はことばを失い、ただ圧倒されていた。と同時に、いつか自分もこのレースに乗ってみたい、そして勝ちたいと思った。ダービーへの強い思いがそれぞれの胸に刻まれた。
「ナカノコール」という希有な体験をしたかれらが騎手デビューしたのは2年後の'92年3月である。8人のなかで一番先にダービーに騎乗したのは上村洋行だった。
異例の大抜擢で挑んだ、初の日本ダービーは……
父が厩務員だったことで小さいときから馬に接し、自然と騎手をめざしていた上村は、デビューした年に40勝をあげ、重賞にも勝った。2年めは53勝と順調にステップアップし、その年に出会ったナムラコクオーで翌年のダービーに騎乗する。しかも2番人気だった。デビュー2年めにダービーに騎乗した武豊でさえ有力馬に乗ったのは4年めのハクタイセイ(2番人気)が最初である。それを思えば、上村の起用は異例の大抜擢だったと言っていい。