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51歳のプロアドベンチャーレーサー。
“鬼軍曹”田中正人、風まかせの人生。
text by
千葉弓子Yumiko Chiba
photograph byNanae Suzuki
posted2019/05/02 09:00
世界でも珍しいプロアドベンチャーレーサーの田中正人。妻の靖惠さん、娘のあきらちゃんと。
地図は読めても、人の心が読めない。
高校時代からオリエンテーリングの選手として活躍してきた田中は、1993年に初開催された71.5kmの山岳レース『日本山岳耐久レース』(通称:ハセツネ)で初代優勝者となった。それがイベントプロデューサーの目にとまり、「(タレントの)間寛平とチームを組んで、世界最大のアドベンチャーレース『レイド・ゴロワーズ』に出てみないか」と誘われる。
“冒険”というキーワードに惹かれ、田中は挑戦を決める。いきなり個人競技から、チーム競技へ転換したわけだ。
大会の舞台はボルネオ島。地図読み技術と山での走力を見込まれて司令塔を任された田中だったが、初めて経験するジャングルでは正確なナビゲーションができない。蜂に刺され、巨大蟻に噛みつかれ、ヤマビルが体中にはりついてウエアが血だらけになり、すっかり余裕を失ってしまう。
そしてメンバーをまったく気遣うことなく、田中は強引に前進した。レース3日目、ルール違反になるからと濡れたビブゼッケンの着用を指示する田中に、ついにあのカンペー師匠が切れてしまう。
「いちいち命令すんな!」
弟子にも声を荒げたことがない温和で知られる間寛平をも怒らせてしまった田中。レース終了時、間はあまりのストレスから円形脱毛症になっていたという。
「当時の僕は人の気持ちが全然読めなくて、自己中心的だったんです。喧嘩上等っていう態度でね。体力だけは人一倍あったので、なんでみんな自分と同じようにできないんだとイライラしていました」
田中は苦笑いを浮かべながら、振り返る。チーム競技で自身の人間としての未熟さに愕然とし、大きな挫折を味わった。
「人と接する機会の少ない研究職は自分に合っていたけれど、それは苦手な人づきあいから逃げていただけじゃないのか。このままじゃ、人としてダメだ。アドベンチャーレースを突きつめれば、自分は人間として成長できる!」
そう確信し、翌年、会社を辞めてプロアドベンチャーレーサーになった。
過去には白石康次郎や服部文祥も。
27歳の田中は、会社員時代の蓄えを基に、埼玉の実家から利根川が流れるみなかみ町に引っ越し、チームイーストウインドを立ち上げる。集まってきたアスリートたちとラフティングツアーのガイドなどをして生計を立てていた。
過去のイーストウインドにはさまざまなアスリートが所属していた。海洋冒険家の白石康次郎やトライアスリートの白戸太朗、トレイルランナーの石川弘樹、サバイバル登山家の服部文祥なども一時期メンバーで、チームを離れた後は、それぞれの専門分野でさらなる活躍を見せている。
逆にいえば、才能あるアスリートが次々に入れ替わり、チームメンバーはなかなか定まらなかったともいえる。競技に集中したくても、仕事や家庭の事情で辞めざるを得なかったり、田中と意見が分かれて辞めたりした選手もいた。
2007年、自ら希望して加入してきたのが田中陽希だ。いまは一時的にチームを離れ、NHKのBS番組『グレートトラバース』で日本三百名山全山踏破に挑戦しているが、旅を終えた後は、次期イーストウインドのキャプテンに就任することが決まっている。ほかにも国際レース経験を積んだ20代の女性メンバーが所属していて、外資系企業など長期休暇が取りやすい環境で働く経験豊富な選手が助っ人としてチームに加わる。
チーム創設から20年以上の歳月が経ち、親子ほど年の離れたメンバーとチームを組むようになった田中は、いまどんな変化を感じているのだろう?
「やっぱり、ジェネレーションギャップはありますよ(笑)。あと、アドベンチャーレースはメンバー同士が助け合っていいルールなんですが、かつては僕が誰かの荷物を背負っていたのに、いまは若手が僕の荷物を背負ったりとかね。その代わり、僕はナビゲーション技術と判断力を駆使して、レースが上手く回るように戦略を立てます。状況によって、チーム内で毎回違った化学変化が起こる。答えが一つじゃないから、いくらやってもやりきった感がないんです」