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ジャイアント馬場没20年追善試合。
棚橋弘至が全日本三冠王者にかけた技。
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2019/02/20 17:30
棚橋弘至にも宮原健斗にも、馬場さんから流れるプロレスの系譜が染み込んでいるのだ。
全日の宮原と新日の棚橋が対峙。
メインイベントでは全日本の宮原健斗が大日本の関本大介と組んで、新日本の棚橋弘至、フリーのヨシタツ組と戦った。タッグマッチではあるが、宮原は全日本プロレスの看板タイトルである三冠ヘビー級王者、棚橋に今IWGPヘビー級のベルトはないが、棚橋はその腰に8度もIWGPを巻いた新日本のトップであり顔である。
団体のトップがメインイベントで対峙した。
宮原は棚橋を模倣してきた。ある意味で尊敬があるからこそ棚橋のように行動してきたと言った方が正しいのかもしれない。棚橋がプロレスを広めるために時間を惜しまずプロモーションのためにコツコツと動いている姿を宮原も見習って来た。
宮原も棚橋もレスラーとして馬場との接点はない。2人が記憶しているのは全日本プロレスの試合前の売店で座ってサインしている馬場の姿だった。
馬場も生きていれば81歳になるのだから、それは当然のことだ。
2月19日はプロレスの日だ。
東日本大震災の後、2011年8月27日に「All Together」という名のチャリティ試合が日本武道館で行われた。棚橋はメインで諏訪魔と潮崎豪とタッグを組んで中邑真輔、KENSO、杉浦貴組と戦った。
2012年2月19日に行われた第2弾の仙台大会では、棚橋、諏訪魔、森嶋猛組で、潮崎豪、真田聖也、内藤哲也組と戦っている。
だが、まだこの時、宮原は武道館大会には出場したが、バトルロイヤルだった。
交流戦や対抗戦を除けば、オールスター戦的な要素を含んだ大会でそれぞれの団体のトップがメインで対峙することはなかった。
1979年8月26日に日本武道館で行われた「夢のオールスター戦」では馬場と猪木のBI砲が復活して、ブッチャー、タイガー・ジェット・シンという両団体を象徴する相手と戦った。
2月19日は「プロレスの日」。1954年のこの日、力道山、木村政彦組がシャープ兄弟と蔵前国技館で戦って、NHKと日本テレビの2局がこれをテレビ中継した日だ。