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甲府、名古屋、大分を支えた男の死。
誰より謙虚だったダニエルを偲んで。 

text by

渡辺功

渡辺功Isao Watanabe

PROFILE

photograph byJ.LEAGUE

posted2019/02/19 17:00

甲府、名古屋、大分を支えた男の死。誰より謙虚だったダニエルを偲んで。<Number Web> photograph by J.LEAGUE

つい2016年まで、ダニエルは日本でプレーしていた。彼の笑顔と勇姿は多くの人の心に今も焼き付いている。

ミニゲームでも負ければ激怒する。

 ダニエル本人も「日本に来た当初は、俺はどれだけ下手なんだろう。日本のサッカーに慣れるのは絶対に無理だと、不安でいっぱいだった。でも、来日した最初のシーズンに、自分のことを信頼してくれる仲間たちと出会うことができた。それは自分が日本でサッカーを続けていく上で、とても大きなことだった」と、のちに語っていた。

 無類の負けず嫌い。これもダニエルのことを知る人であれば、共通して思い当たる節があるだろう。甲府と清水エスパルスで計12年間、ポルトガル語の通訳を担当したジュリオさんも「自分が一緒に仕事をしてきたブラジル人選手のなかで、ダニエルが一番の負けず嫌いだと思う」と、言っていたほど。

 甲府時代の練習中、小さなサイズのゴールを使ってのミニゲームでのこと。相手のシュートが入りそうになった瞬間、自分の位置からでは間に合わないと思ったのだろう。それでもダニエルはゴールインを防ごうと、ミニゴールのほうを蹴っ飛ばしたのだ。

 また別の日に行われた3人組対3人組でのミニゲームでは、どうしても自分のチームが勝てないままタイムアップ。すると、一緒にチームを組んでいた松橋優に向かって、怒り心頭の面持ちで言い放った。

「マサル! お前とは、もう二度とチームを組まないからなっ!!」

 どんな些細なゲームや遊びでも、勝負事で負けそうになると、頭に血をのぼらせてキレかかっては「ダニっ、ケンカすんなよ」と、しょっちゅう周りから囃し立てられていた。

 公式戦の試合中にも、チームメイトと激しく言い争うことがたびたびあったが、「試合になったら、たとえ相手チームに自分の母親がいたとしても、厳しく行かなくてはいけないんだ」と、あふれる闘志を前面に出して戦う姿は頼もしくあった。

安間監督に感じていた大きな恩義。

 そんな熱き大男でいながら、勝負の場を離れると、目配りや気遣いを忘れない心優しきナイスガイだった。

 '09年、甲府は勝点1差で惜しくもJ1昇格を逃す。このシーズン限りでの退任が決まった安間監督が、リーグ最終戦を戦い終えてロッカールームに戻ると、ダニエルがFWマラニョンとふたりで並んで待ち構えていた。

「お前には世話になったからと言って、試合で着ていた汗まみれのユニフォームを、その場で僕にくれたんです。チームが変わってからも名古屋や大分に遠征に行くたび、アウェイのロッカールームの前に立って、僕が出てくるのをずっと待っていてくれてね。

 FC東京U‐23の監督として、J3で大分に行ったとき('16年5月)なんか、キックオフの直前に、わざわざ握手とハグをするためにウチのベンチ前まで来て、ピッチに戻っていったんです。こっちは『よっしゃ行くぞ』と、選手に声掛けしているタイミングでしたからね。力が抜けそうになりましたよ。気持ちはうれしいけど、そういうのは試合が終わったあとにしようよって(笑)」

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