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黒田博樹と北別府学、前田健太が
語った「カープのエース」の伝統。
text by
鷲田康Yasushi Washida
photograph byNanae Suzuki
posted2019/01/16 16:30
黒田博樹(左)と北別府学。球団にとってのレジェンドが、カープのエース論について語り尽くしてくれた。
巨人相手に孤軍奮闘した反骨心。
入団した1997年当時の広島市民球場は空席が目立つスタジアムだった。
「ファンの数も多くなかったし、ファンの目が厳しくて、勝たないと人も入ってこないチームだった」
そこで人気絶頂、巨額を投じた補強でありあまる戦力を誇った巨人を相手に孤軍奮闘し、ひたすら一人でマウンドに立ち続ける。それがカープのエースの意地だと教えられた。
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「エースと言われるようになってからは、(巨人という存在は)羨ましさを感じる反面、反骨心につながっていましたね」
広島のエースを動かす原動力は、その反骨心だったのである。
出ていくやつは出ていけばいい。
「僕も(野球をやる価値は)年俸ではないという思いはありましたから。巨人とかに移籍していく選手を見ていて、出ていく奴は出ていけばいいと思っていた。ただ、オレたちはここで、このチームで勝つんだ、という気持ちだけでしたからね」
こう語るカープのレジェンドプレーヤー北別府学も、だからこそカープのエースの条件は完投しかないと語る一人だった。
「僕らの時代のエースの条件といえば、ローテーションをしっかり守って完投すること。僕も先発するときはまず完全試合に始まり、次はノーヒットノーラン、完封、完投と目標を変えながらマウンドに上がっていた。外木場(義郎)さんや池谷(公二郎)さんら僕らの先輩のエースというのは、それが当たり前だったと思います」
その伝統を受け継ぎ、1976年の入団から'94年に引退するまで、実に135完投で通算213勝をマーク。最多勝2回、沢村賞2回など数々のタイトルを手にした。
ただ、北別府の時代と黒田の時代が少し違うのは、当時の広島は常に優勝争いを演じる強者だったことである。北別府は言う。
「もちろん自分が投げるときにはリリーフには負担をかけない。その上で最低15勝を基準に、そこからいくつ上乗せできるか。エースが上乗せした数字で優勝が見えてくると思って投げていた。それがエースというものだと思っていました」