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立浪和義にとっての「運命の人」。
星野仙一は怒りと愛に満ちていた。
posted2019/01/04 08:00
text by
立浪和義Kazuyoshi Tatsunami
photograph by
Koji Asakura
1年後の今日、星野監督のもとで中日ドラゴンズの主力へと成長した
立浪和義さんがNumber944号(2018年1月18日発売)に寄せた、
恩師への追悼文を全文掲載します。
星野さんが亡くなられたことが今でも信じられません。昨年の9月にテレビ番組の収録でご一緒した時には元気そうでした。12月に大阪での野球殿堂入りパーティーで挨拶した時にはちょっと痩せたように見えて、顔色も良くなく、しんどそうでしたが、まさかこんなに早く……。
僕は星野さんに運命を決めてもらった人間だと思っています。1987年のドラフトでは南海の杉浦(忠)監督が僕を1位指名すると早くから言ってくれていて、ほぼ自分の中で南海に行くと決めていたんです。
ただ、その後、ドラフト直前に中日が指名予定だった選手がプロ入りを回避したため、関係者を通じて1位指名の可能性があると聞きました。僕にはセ・リーグでやってみたい気持ちもあり、スカウトの方を通じて「来たいんなら、俺が引いてやる」という星野監督の言葉も伝え聞いてはいました。そして当日、本当に引いてくれたんです。不思議な縁を感じました。
PLとはまた違った厳しさ。
もっと驚いたのは、まだ監督になって2年目の星野さんが、高卒のルーキーを球団史上初めて開幕からショートのスタメンで使ってくれたことです。当時は前年のベストナインの宇野(勝)さんが正遊撃手だったので、僕はそんなこと絶対にないと思っていましたし、監督も僕に開幕の当日でさえ言いませんでした。だから、使ってもらってからは、もう毎日、必死でしたね。
PL学園も厳しかったですが、星野監督にはまた違った厳しさがありました。1年目、試合で塁に出ると他球団の先輩方から声をかけられるので、挨拶を返していたのですが、ベンチを見ると星野監督が怒っているんです。「試合中になに敵としゃべってるんや! ユニホームは戦闘服やぞ!」って。だからと言って挨拶を返さないわけにはいかないので、それからは監督に見えないように、こそっと挨拶していました。
どんなに遠くにいても星野さんがグラウンドに入ってくると緊張しました。打者がボール球を振って戻ってくると、試合中のベンチでそのままどやされましたから、その様子を見て、逆にこれから出番の控え選手たちがガチガチになっていました。