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時代の終わりにプロ野球の意義を。
戦後初めて球音を聞いた男の物語。

posted2018/12/20 17:00

 
時代の終わりにプロ野球の意義を。戦後初めて球音を聞いた男の物語。<Number Web> photograph by Kyodo News

名古屋軍(現中日)で5年、阪急で12年プレー。引退後は妻の父親が中央競馬の調教師であったという縁から、競馬評論家に。

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小西斗真

小西斗真Toma Konishi

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Kyodo News

 平成最後の年の瀬に、ぜひとも書き残しておきたい野球人がいる。古川清蔵。今年10月17日、兵庫県宝塚市で老衰のために亡くなった。96歳の大往生だった。

 古川氏は1922年3月4日生まれ。鹿児島商から八幡製鉄をへて、'41年に名古屋軍に入団した。中日ドラゴンズの前身である。生前の古川氏は、職業野球を選んだ経緯についてこんな言葉を残している。

「給料が良かった。生活をしていくために、それは大きかった。八幡製鉄の倍くらいはありましたからね。それに戦争が近いのはわかっていましたから。それなら思う存分、野球をやっておけ。そういう思いもありました」

 当時は職業野球が発足してまだ6年目。国民に人気があったのは大学野球であって、職業野球への世間のイメージは現在よりはるかに低かった。

 生活のため。そして忍び寄る戦争への思いが古川氏の背中を押した。

伝説の延長28回日没引き分け。

 その年の12月に日本は真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まった。当時の名古屋軍にはのちに野球殿堂入りする西沢道夫、投手と捕手の二刀流で永久欠番となっている服部受弘に、大沢清(日本ハムの監督などを務めた大沢啓二の実兄)らがいた。

 外野手だった古川氏は、俊足と強打の右打者として1年目から活躍した。2、3年目には連続本塁打王を獲得。そのうちの1本が、球史に残る死闘を演出した。

 1942年5月24日。まだフランチャイズ制はなく、後楽園に4チームが集まり、3試合が組まれていた。午前中の第1試合を戦った名古屋軍は、第2試合との連戦になった大洋との第3戦に臨んだ。

 午後2時40分に始まった試合は、2-4と大洋がリードし、9回2死まで進んだ。ここで起死回生の同点2ランを左中間に運んだのが古川氏だった。ここから延長戦に突入し、互いに譲らず。延長28回、日没引き分け。永久不滅の最長イニング試合が誕生した。

【次ページ】 9人で戦いきり臨時ボーナス。

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