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時代の終わりにプロ野球の意義を。
戦後初めて球音を聞いた男の物語。 

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小西斗真

小西斗真Toma Konishi

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photograph byKyodo News

posted2018/12/20 17:00

時代の終わりにプロ野球の意義を。戦後初めて球音を聞いた男の物語。<Number Web> photograph by Kyodo News

名古屋軍(現中日)で5年、阪急で12年プレー。引退後は妻の父親が中央競馬の調教師であったという縁から、競馬評論家に。

「生きて野球をやれるなんて」

「僕はね、水戸にいたから帰ってくるのも早かったんですよ。すると秋には試合をやるぞって連絡が来た。驚きましたよ。生きて野球をやれるなんて、考えてなかったから。うれしかった。生きていてよかった。でもそんなことは言えなかったですよね」

 茨城県の陸軍航空通信学校で終戦を迎えた古川氏は、戦場に散った仲間たちを慮り、素直に喜びを表現することができなかったという。

 実際、当時の日本は「まだ野球どころではなかった」はずで、水原茂のようになお戦地に抑留されていた人もたくさんいたし、「赤バット」の川上哲治や「七色の変化球」の若林忠志らは、国内にはいたが不参加だった。

 それでも強行し、GHQも許可したのは「野球をやることが、復興に向けた国民のエネルギーとなる」と考えられたからだ。

藤村のプロ野球第1号は……。

 この試合で藤村は本塁打を放っている。いわば戦後のプロ野球第1号である。復興に向けて「物干し竿」が豪快な球音を響かせた。そう言いたいところだが……。

「あれはね、私が転んでしまったんですよ。練習も何もやってなかったんだから、仕方がない。転んで打球をそらしてしまった」

 古川氏が笑顔で話していたのがついこの前のことのようだ。記念すべき戦後第1号はランニング本塁打だった。

 午後1時11分に始まった東西対抗は、13-9で東軍が打ち勝った。試合時間2時間3分。選手にも野球ファンにも十分な事前の告知ができたはずもなく、物資にも限りがあった。審判員は球審と塁審1人。それでも晩秋のやわらかな日差しのもと、6000人の観衆が戻ってきた球音を楽しんだと記録に残っている。

 戦後の古川氏は中部日本、中日と名を変えたチームを離れ、1948年に阪急に移籍した。世に言う「赤嶺旋風」である。1698試合に出場し、1419安打、97本塁打、370盗塁という数字を残して1959年に現役を引退。その後は競馬評論家に転身し、サンケイスポーツ紙上に予想コラムを執筆した。

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