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豪華施設、超速昇格、セルジオ越後。
ベルマーレのルーツは伝説の社長。
text by
川端康生Yasuo Kawabata
photograph byJ.LEAGUE
posted2018/10/11 11:00
クラブ創設50周年を記念した黄色と緑のユニホーム。湘南ベルマーレにとって、これまでの歩みを凝縮した一戦だった。
21点取った試合もあったらしい。
初年度、栃木4部では2桁得点は当たり前(21点取った試合もあったらしい)。おかげで2部、3部の優勝チームとの昇格決定戦が実現。これに勝った藤和不動産が“飛び級”で1部に上がることになったのである。
そんな強さは有力選手の獲得によるもの……と考えがちだが、そうではない。
結成時の選手は20人弱。しかし、このうちサッカー経験者は実は5人だけ。なかには社員ではなく、大学生もいたというから、とにかく人数を集めて登録し、リーグに参加した。そんな旗揚げだったのだ。
チームが急速に力をつけ始めるのは2年目からだ。この年、大卒の新戦力を獲得(といってもまだ準レギュラークラス。有力選手を獲得できるようになるのは関東リーグ入りした3年目から)。栃木県1部に所属しながらも、練習試合では日本リーグの名相銀をはじめ、東海リーグのトヨタや関東リーグの富士通から勝利を挙げるまでになるのである。
那須に専用練習場、名指導者も。
そんな急成長の背景には恵まれた環境があった。藤和不動産が手掛けていた「那須ハイランド」に専用練習グラウンド、合宿施設などを設置。それもグラウンドは芝生3面、全24室すべて個室の合宿所(コテージ風)には栄養士がつき、選手の食事を用意した。夜はビデオテープを使ってミーティングまで行なっていたという。
これは当時、日本リーグのチームでさえ練習場所を転々としていたサッカー界では図抜けた施設。しかも、すべてが1カ所に集中していたから、会社と練習場を移動しなければならなかった他チームにとっては垂涎の環境だった。
そんなわけで日本リーグ勢が施設を借りに来ることもあった。三菱重工(現レッズ)が合宿を行なった際、同行していたドイツの名指導者バイスバイラーが絶賛したという逸話も残っている。それほど先駆的な環境を藤和不動産サッカー部は有していたのである。
もちろん環境がいかに恵まれていてもそれだけでは選手は成長しない。その意味では石井義信コーチの存在も大きかっただろう。サッカー協会の技術委員としてデットマール・クラマーのアシスタントも務めていた石井が(陸上のトレーニングを導入するなど)斬新な指導で、選手たちを鍛え上げていったのだ。
ちなみにこの頃、石井は東洋工業で日本リーグ優勝を経験した後、現役を引退。当時は広島本社から東京支社に転勤となり、サッカーから離れていた。そんな石井に、サッカー部の立ち上げに奔走していた黒木芳彦(初代監督)が声をかけ、藤和不動産に引き入れたのである。