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豪華施設、超速昇格、セルジオ越後。
ベルマーレのルーツは伝説の社長。
text by
川端康生Yasuo Kawabata
photograph byJ.LEAGUE
posted2018/10/11 11:00
クラブ創設50周年を記念した黄色と緑のユニホーム。湘南ベルマーレにとって、これまでの歩みを凝縮した一戦だった。
社長の鶴の一声でサッカー部創設。
そして、その黒木にサッカー部創設を指示したのが藤和不動産社長の藤田正明。
実はこのチーム、彼の鶴の一声で結成されたのだった。
藤田正明は、名前からも察せられる通り、フジタ創業家の次男。グループ企業の藤和不動産で社長を務めるとともに政治家としても活動。後に参議院議長にも就く親分肌のリーダーだった。
そして自らも修道高校、早稲田大学でプレーしたサッカーマン。同時に世界の事情にも詳しかった。そんな彼の慧眼と剛腕が、このチームの最大の推進力だったのである。
たとえば「強化のための環境作りには金は惜しまない」。強くなるためには練習と休養と栄養が必要だと認識していた彼だからこそ、日本スポーツ界屈指の那須の施設は完成した。
「野球はアメリカと日本だけ。将来、必ずサッカーの時代が来る」が持論だった。そればかりか「強くなるためにはプロを作らないとダメだ」とまで口にしていた。Jリーグができる25年も前である。
それどころかアマチュアリズム全盛で、「プロ」と言う言葉自体が嫌悪され、御法度だった時代に、藤田は将来のプロ化を見据えてサッカー部を作ったのだ。
本物のセルジオ越後を“輸入”。
そんな藤田の考えはチームが日本リーグ入りした1972年に、サッカー界に波紋を起こすことになる。
「うまくなるには本物に触れないといけない」
インターネットはおろか、衛星放送もまだなかったこの頃、ヨーロッパや南米のサッカーを目にする機会はほとんどなかった。ならば、と藤田は本物のプロ選手を“輸入”してしまうのだ。
それがセルジオ越後である。もちろん日本サッカー史上初の「元プロ」選手の獲得にアレルギー反応は強かった。そして翌年には「外国人選手の出場は来日、登録してから6カ月間認めない」という新たな規約が設けられることになるのである。
藤田の発想は四半世紀早かった。早過ぎたと言ってもいい。しかし、そんなオーナーに牽引されて藤和不動産サッカー部は頭角を現し、フジタを経て、ベルマーレへと辿り着くのである。