【NSBC補講IV】皆川賢太郎のスキー革命論BACK NUMBER
高梨沙羅、平野歩夢とSNOW JAPAN。
スキー&スノボを認知させるために。
posted2018/09/30 11:00
text by
皆川賢太郎Kentaro Minagawa
photograph by
2018 HEIDI Co. , Ltd.
私は17歳でプロになり、37歳で現役を引退するまでの約20年間、ワールドカップなどの海外ツアーやプロとして多くのレースに出場してきました。
プロ選手として生活を成り立たせるためには(賞金のかかった)レースに出場することは重要でしたが、一方でアマチュアの団体である(スキー)連盟にとって、そして日本人にとって、五輪は絶対的な存在であり、もちろん私もどちらも大切なものだと捉えていました。実際、全日本スキー連盟(以下SAJ)に登録しながら強化活動、世界を転戦してきました。
ただ、現役時代には体制や支援に不具合を感じ、よく連盟とぶつかっていました。だからこそ、引退後のキャリアでは連盟を改革したいと考えていたんです。
とはいえ、そういった理想を持ち、「経営強化をする」といったところで対価が保証されているわけではありません。また引退したとき、自分自身に体力がなければ、他人を動かしたり、大きな組織を改革することは不可能だと考えていました。
プロとして転戦しつつビジネスを。
そこで自分自身が確固たるエンジンを保持すべく、22、23歳から、プロスキー選手として世界を転戦すると同時に、ビジネスを始めるようになったのです。
引退する頃には立ち上げた会社も多少軌道に乗り、結果として、SAJに関することに時間を使えるようになった背景があるのです。
現在は競技本部長というポジションに就いていますが、もともと、連盟の経営や再建の分野に興味がありました。ただ、まだ私には何の実績もない。(連盟の)理事になる前に堤義明さんから、「ある程度の実績を残さなければ認められない。成功事例を作りなさい」というアドバイスを受け、引退後、アルペンスキーの興行(ワールドカップ)を日本に誘致することに取り組みました。事業規模3億8000万円くらいの案件です。
その成功をきっかけに、2015年には理事に、その翌年には常務理事に。2年半前ころからはSAJのマーケティングにも関わることになったのです。