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消滅危機だった日本GP存続決定!
30回を迎える鈴鹿が勝ち取ったもの。 

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尾張正博

尾張正博Masahiro Owari

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photograph byAFLO

posted2018/09/09 17:00

消滅危機だった日本GP存続決定!30回を迎える鈴鹿が勝ち取ったもの。<Number Web> photograph by AFLO

昨年は鈴鹿で初のポールポジションを奪ったハミルトンが優勝。来季以降もこの光景が見られるのは何よりだ。

GPの契約スタイルを変えたかった。

 山下がそのような姿勢をとったのは、必ずしもお金だけの問題ではなかった。

 たとえ日本GPで損失を出しても、ホンダが穴埋めしてくれる。それでも日本GPの将来についてあえて困難な道を選択したのは、このGPの契約スタイルを変えたかったからだった。

 これまでのFOMは、F1界のドンとも言われたバーニー・エクレストンが牛耳っていた。エクレストンは決して妥協を許さなかった。

 それによってF1は、この30年間でオリンピックやサッカーのワールドカップに次ぐ地位と規模を誇るイベントに成長。その一方で、強引な手法によってさまざまな歪みも生まれていた。

「イエスかノー」交渉から脱却。

 そのひとつが、F1を開催する各国の主催者との交渉だ。

 エクレストンと各国主催者との話し合いは、開催権料に関して「イエス」か「ノー」の回答をするだけというもの。そこに交渉の余地はなかった。

 '80年にモビリティランドの前身である株式会社ホンダランドに入社した山下は、'87年に鈴鹿で初めてF1日本GPが開催された際の契約関係の部門の一員だった。それから約10年間、その仕事を続けていた山下には、忸怩たる思いがあった。

「ひと言で言えば、われわれが持っていた権利は『やめる』という権利だけ。それは通常のビジネスではあり得ない。その状態のまま後輩にバトンタッチすることだけは絶対にしたくなかった。それが今回のFOMとの交渉における私の最大のモチベーションだった」

 山下が社長になった翌年の'17年、FOMも大きく変わった。アメリカ企業のリバティ・メディアがF1を完全に買収したのだ。エクレストンは退陣し、チェイス・ケアリーが会長兼CEOに就任。チャンスが訪れた。

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