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子どもをスタジアムに呼ぶために、
もっとオールスターの地方開催を! 

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田尻耕太郎

田尻耕太郎Kotaro Tajiri

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photograph byKyodo News

posted2018/07/20 07:00

子どもをスタジアムに呼ぶために、もっとオールスターの地方開催を!<Number Web> photograph by Kyodo News

オールスター第2戦の試合開始前に、選手たちが熊本地震の犠牲者に黙とうを捧げた。

プロ野球が自分の街にくる嬉しさ。

 だから、自分の子ども時代もそうだったが、年に一度あるかないかのプロ野球はとにかく楽しみで仕方なかった。「勝負」はシーズンオフから始まっていた。新聞にいつ来季日程が載るかと待ちわび、一覧表の中に小さな文字で自分の街の球場名を見つけるとガッツポーズをした。

 たとえ贔屓チームでなくとも関係なかった。来てくれてありがとう。その感謝だけだった。

 試合の1週間前からは毎日のように週間天気予報をチェックした。雨マークは天敵だ。待ちに待った当日、急ぎ足で球場に向かった。入場ゲートでチケットをもぎってもらう。

 当時はあのほんのわずかな時間がやけに長く感じたが、今思えば少し待たされたことで、その先にある夢の世界へのワクワクドキドキの高揚感がさらに増していたような気もする。

地方開催は2013年で途絶えていた。

 今回、オールスターゲームが地方球場で開催されたのは5年ぶり13例目だった(12球場目、松山坊っちゃんスタジアムが2度)。

 '92年、仙台・宮城球場で実施されたのが最初の例だ。

 昭和の時代のオールスターゲームは年3試合行われていたが、日本野球機構と労働組合・日本プロ野球選手会の取り決めで'89年から2試合に減少。ただし夏季オリンピックが開催される年に限って、野球振興のためのチャリティーゲームとしての1試合を加え、第3戦を地方球場で開催することになったためだ。

 '96年は富山アルペンスタジアムで実施。その次はなぜか3年後、'99年に倉敷マスカットスタジアムで行われ、'00年は長崎ビッグNスタジアム、'01年は札幌ドーム(当時ファイターズ移転前)、'02年は松山坊っちゃんスタジアムと続いた。

 しかし、以降は2年に1回などやや不定期となり、'12年の岩手県営野球場、'13年のいわきグリーンスタジアムと東日本大震災の復興支援として開催されたのを最後にその後4シーズンは地方開催が途絶えていた。

【次ページ】 4年に1度地方開催、で足りるのか。

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松中信彦

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