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山下、田代、齊藤、遠藤、高木、三浦。
大洋ホエールズ、誰も知らない伝説。

posted2018/03/30 15:00

 
山下、田代、齊藤、遠藤、高木、三浦。大洋ホエールズ、誰も知らない伝説。<Number Web> photograph by Masashi Ebato

創立は1949年。'78年横浜スタジアムに移転し、「横浜大洋ホエールズ」となる。'93年シーズンから「横浜ベイスターズ」、2011年から「横浜DeNAベイスターズ」。

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二瓶仁志(Number編集部)

二瓶仁志(Number編集部)Hitoshi Nihei

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Masashi Ebato

「大洋ホエールズ」とは、どんなチームだったのだろう。

 ファンサービスが充実して、おしゃれな雰囲気も漂う「横浜DeNAベイスターズ」。その前身球団であるものの、「大洋ホエールズ」には無骨で男くさいイメージがついてくる。過去と現在は、どのようにつながっているのか。それとも、つながっていないのか。現チームについて当時の選手たちはどう思っているのか、など様々な疑問をぶつけるため、大洋ホエールズ関係者へ取材に赴いた。

 今回の「Number EX」では、個性的な大洋戦士たち(山下大輔、田代富雄、齊藤明雄、遠藤一彦、高木豊、三浦大輔)の、誌面に収録しきれなかった話を紹介する。

 まず、ダイヤモンドグラブ賞を8回獲得する不動の遊撃手だった山下大輔。学生時代には端正な顔立ちから“慶応のプリンス”と呼ばれた。

山下 ドラフト会議は実家の応接間で記者に囲まれてラジオ中継を聞いていました。1973年は江川卓が高校3年で、ドラフト対象でした。その中で最初に僕の名前が出た。当時のドラフトは大洋が1番目に僕を指名したら、他球団は僕以外の人を指名するというルールだったので、すごく光栄に思いましたね。

 しかし、1年目は打率.181という結果に終わりました。オフに“青バット”の大下弘コーチの元、僕と田代と長崎慶一さんの3人で、12月と1月に勝浦合宿に連れて行かれました。ネットもない球場で、ひたすらバッティング練習。それで2年目は打率.240。3年目、ボイヤーさんにオープンスタンスの打撃を教わって打率.276の結果を残せたんです。

オバQは門限破ってもバッティング指導。

「オバQ」と呼ばれた風貌に、空に美しく舞い上がるホームラン。大洋のスラッガーとして人気を博した田代富雄は山下の3学年下にあたる。

田代 松原誠さんにはお世話になったなあ。門限を破って朝2時か3時に帰ると、俺の部屋に「何時でもいいから来い」と張り紙があるんです。朝イチで松原さん(当時打撃コーチ)の部屋に行くと、門限のことは問題にされずバッティング指導をされたよ。飯もよく連れて行ってもらった。何しろ給料が安かったからね(笑)。

 寮の部屋は隙間だらけ。窓を閉めてカーテンをかけても、光が入って暗くならねえんだよ。俺と同じくらい部屋が汚かった若林憲一の部屋には、キノコが生えてたしね。夏は暑くて窓から上半身を出して寝てたら、雨が降って体がびしゃびしゃになった。あと俺の部屋は1階だったから、門限を破った先輩の通り道になってたんだ。みんな土足で入ってくるから、朝起きたら部屋がドロドロなんてこともよくあったね。

【次ページ】 ヒゲの齊藤、134勝を挙げた遠藤も。

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