ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
棚橋も、武藤も、ライガーも出身者。
ヤングライオン杯は新日本の未来像。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2017/12/21 11:40
写真は、2002年の棚橋弘至。ヤングライオン時代は短かった髪も伸ばし始めている。まさにキャリアの分岐点になる大会と言えるだろう。
のちのライガー、山田恵一がファンの心を掴む。
中でもとくに目立ったのが、のちのライガーである山田恵一の奮闘ぶりだ。
身長170cmの小兵ながら、身体全体でぶつかっていく闘いから、“和製ダイナマイト・キッド”と呼ばれ、決勝戦で先輩の小杉俊二に敗れたものの、その全力ファイトがテレビのゴールデンタイムで生中継されると、多くのファンの心にその名を刻むこととなった。
そして、この第1回大会の成功から、「ヤングライオン杯」は若手選手の登竜門大会として、定着していったのだ。
大会名は、猪木の若手時代の異名“若獅子”から。
なお、この「ヤングライオン杯」、当初は現在とは異なるネーミング案があったことは、あまり知られていない。
それまでプロレス界で行われてきた若手選手のリーグ戦は、新日本が「カール・ゴッチ杯」、全日本が「ルー・テーズ杯」と、どちらも伝説の名レスラーの名を冠したものだった。
それに倣って「ヤングライオン杯」も当初は、前身である「カール・ゴッチ杯」の第1回優勝者であり、無名の若手からスターになった先駆者でもある藤波辰爾の異名を取って、「ヤングドラゴン杯」とされる案もあった。
しかし最終的には藤波ではなく、総帥・猪木の若手時代の異名である“若獅子”を英語にした「ヤングライオン杯」となった。そして、この第1回大会以降、新日本の若手を“ヤングライオン”と呼ぶようになったのだ。
なお、「ヤングドラゴン杯」という名称は、その後ウルティモ・ドラゴンが主宰する「闘龍門MEXICO」の若手選手トーナメントの名称として用いられ、現IWGPヘビー級王者オカダ・カズチカは、2004年第9回「ヤングドラゴン杯」の優勝者だ。