炎の一筆入魂BACK NUMBER
カープの教え子は「日本一で恩返し」。
去りゆく石井琢朗コーチの思い出。
posted2017/10/17 10:45
text by
前原淳Jun Maehara
photograph by
Kyodo News
別れは突然やってくる。
互いに恋い焦がれても、別の道を歩む決断を下すときもある。別れとはそういうものだ。ただ、広島と石井琢朗がともに過ごした時間は、互いにとって幸福であり、充実したものだったに違いない。
'08年シーズン終了後、石井は横浜(DeNA)から広島に移籍した。輝かしい実績を引っさげて来た新天地で、ベテランとして陰でチームを支える役割を見事にこなした。
「カープを強くしたい」
その一心だった。
広島の選手として叶わなかったクライマックスシリーズ(以下CS)出場は、コーチに就任して達成した。
石井が来て、広島打線は生まれ変わった。
「カープを強くしたい」という思いはいつしか、「カープは強くなる」という確信に変わっていた。
守備走塁コーチとして、走塁改革にも着手し、菊池涼介を日本一の二塁手に育て同学年の田中広輔との二遊間コンビの下地をつくった。
そして'15年シーズン終了後に就任した打撃コーチとして、強力打線をつくりあげた。
最初の仕事となった秋季キャンプでは、まずは選手個々の振る力を培いながら、それぞれが進む方向性を探り(「“2000本安打”の真髄を伝えたい……。 広島の打撃コーチ・石井琢朗の現場感。」http://number.bunshun.jp/articles/-/824513 )、翌春キャンプでは基礎から実戦に落とし込んだ(「クロスプレー規定で野球が変わる? 広島が始めた『ゴロゴー』作戦とは。」http://number.bunshun.jp/articles/-/825146)。
迎えた'16年、広島打線は生まれ変わった。
前年までの得点圏に走者を進めながら、あと1本が出ずに終わった姿はもうなかった。いつしか「逆転の広島」と恐れられ、「ビッグレッドマシンガン」と呼ばれる破壊力のある打線となっていた。
大物新人が入ったわけでも、メジャー出身の外国人が来日したわけでもない。前年までと顔ぶれは大きく変わらない。それでも、わずか1年で見違える攻撃陣をつくりあげた。