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戦争と競馬、天才騎手の運命。
前田長吉が導いたクリフジ伝説。
text by
島田明宏Akihiro Shimada
photograph bySadanao Maeda
posted2017/08/15 07:00
1923年2月23日、青森県生まれの前田は、20歳3カ月の最年少記録でダービーを優勝。翌'44年までに通算勝率3割3分9厘という驚異的な成績を挙げた。
最年少ダービージョッキーと無敗の変則三冠馬の誕生。
前田長吉がクリフジで制した第12回日本ダービーが行われたのは、戦時中の1943年6月6日だった。戦況が悪化したこの年、1月には日本軍がニューギニア・ブナの守備隊が玉砕。4月18日には連合艦隊司令長官・山本五十六がソロモン群島上空で戦死し、6月5日に国葬が行われた。その翌日に、日本ダービーが開催されたのである。しかも、残された映像ではすし詰めに見えるほど多くの人々が東京競馬場を訪れている。もちろん馬券も売られていた。
4月には東京六大学野球連盟が文部省から試合禁止を命じられ解散するなど、ほかのスポーツは戦争の影響で中止されても競馬がつづけられたのは、重要な軍需産業のひとつだったからだろう。また、今と同じように、売上げの一部が国庫に納付されていたのだから、お国のための営みであったわけだ。
そうした背景のなかで、前田は最年少ダービージョッキーとなり、彼を背にしたクリフジはオークスと菊花賞も勝ち、「無敗の変則三冠馬」となった。
クリフジに11戦全勝という輝かしい戦績を与えた。
同年の機関誌「優駿」12月号の目次には「馬は兵器だ汚すな競馬」という標語が掲載されている。そういう時代だったのだ。
クリフジは「大尾形」と呼ばれた伯楽・尾形藤吉の管理馬で、前田は尾形の弟子だった。デビュー2年目の前田がダービーで騎乗できたのは、馬主の栗林友二が「前田でいい」と明言したからだ。しかし、前田の先輩で、のちに日本にモンキー乗りをひろめる保田隆芳が、1940年に出征して不在でなければ、クリフジの手綱を握っていたのは保田になっていたかもしれない。
その意味で、翌1944年にかけて、クリフジに11戦全勝という輝かしい戦績をプレゼントしたときまでの前田は、騎手として非常に幸運だったと言える。
兵隊が不足し、身長147cmほどと、騎手のなかでも小柄なほうだった彼までも臨時召集され、シベリアの凍土で死を迎えたのは不運だったが、競馬の神様に誰より愛された騎手でもあったのだ。