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戦争と競馬、天才騎手の運命。
前田長吉が導いたクリフジ伝説。 

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島田明宏

島田明宏Akihiro Shimada

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photograph bySadanao Maeda

posted2017/08/15 07:00

戦争と競馬、天才騎手の運命。前田長吉が導いたクリフジ伝説。<Number Web> photograph by Sadanao Maeda

1923年2月23日、青森県生まれの前田は、20歳3カ月の最年少記録でダービーを優勝。翌'44年までに通算勝率3割3分9厘という驚異的な成績を挙げた。

富国強兵策の「活兵器」から、東京競馬会設立へ。

 そうした事態を憂慮した明治天皇は、日露戦争開戦の2カ月後、「馬匹改良のために一局を設けて速やかにその実効を挙ぐべし」との勅命を下した。それにより、同年9月に臨時馬制調査委員会が設置され、富国強兵策の一環の国家事業として、日本は「活兵器」である馬匹の改良に取り組むことになったのだ。

 そして、馬匹改良における競馬の必要性を盛んに説いていた加納久宜子爵と、のちに「日本競馬の父」と呼ばれる安田伊左衛門が東京競馬会設立に向けて動き出した。政府も馬匹改良における競馬の必要性を認識しており、寺内正毅陸軍大臣も強力な推進論者のひとりだった。

 かくして1906年春に東京競馬会が設立され、加納が会長、安田は常務理事となった。そして同年秋、池上競馬場で日本人による馬券発売をともなう初の洋式競馬が開催され、大盛況のうちに幕をとじた。

サラブレッドの持つ才能を追求したかったのでは。

 臨時馬制調査委員会によって立案された日本の馬政計画は、ナポレオンの手法を範にとったものと思われる。19世紀の初め、同様に国力増強のため馬匹強化を目指したナポレオンは、6カ所の国営種馬牧場と30カ所の種馬所、3カ所の乗馬学校を創設するなどした。さらに競馬を馬匹改良の手段とし、近代競馬の基礎を築いたのであった。

 馬は貴重な軍需資源で、競馬は国力増強のための国策となった。

 しかし、日露戦争のあと、品種改良のため輸入されたサラブレッドは性質が敏感すぎ、戦場への適応力が疑問視された。軍馬改良の主役はアングロアラブになろうとしていたのだが、それでも競馬関係者はサラブレッドの品種改良にこだわり、競走馬のなかから国有種牡馬を選ぶというルールを馬政局に認めさせた。言い過ぎかもしれないが、競馬のスポーツ性に魅せられた関係者にとって、軍馬改良というのはあくまで名目で、とことんまで追求したかったのは、サラブレッドだけが持つスピードだったのではないか。

【次ページ】 最年少ダービージョッキーと無敗の変則三冠馬の誕生。

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