ゴルフボールの転がる先BACK NUMBER
畑岡奈紗、米ツアー1年目の支え。
「藍さんと一緒にプレーできる」
text by
桂川洋一Yoichi Katsuragawa
photograph byKyodo News
posted2017/07/17 08:00
日本女子ゴルフを引っ張ってきた宮里と、10代にして米国に挑戦する畑岡。高い志を持つ2人が出会ったのは、運命だったのかもしれない。
英会話、長距離移動、ホテル住まい、食生活……。
覚悟の上とはいえ大好きなゴルフが、ある日を境に仕事になった。大半の日本人プロのように、国内でプロ生活のベースを築いて渡米したわけではなかった。最初から米国でプロ人生を歩んだ宮里美香にも、事前にIMGアカデミーで文化に触れる時間があった。
英会話、長距離移動、ホテル住まい、食生活。頭を悩ませるのはオンコースに限らない。
海を渡って、同世代の友達はできただろうか。
「深い話をできる人はまだいなくて。挨拶を交わすばかりですかね。友達と言える人は、まだ、いないかなあ……」
突きつけられた現実は厳しかった。最初からうまくいくと思ってはいなかったが、もっとやれる、という自分への期待もあった。それなのに……。
10代とはいえ、ひとりのプロゴルファーとして立場は同じである。行動には責任を伴う。それが分かるからこそ、もどかしい。
藍さんと一緒に、同じところでプレーできる喜び。
しかし今、彼女の心境のすべてが苦しみ一色かといえばそうでもない。
米国に来てよかったと思えること。
畑岡が一番に挙げたのは「今思うと、藍さんと一緒に、1年でも同じところでプレーできること」だった。
宮里藍が今季限りでの引退を表明してから、最初の米ツアーとなったアーカンソー州での試合で、畑岡は初めて一緒に練習ラウンドを行った。その翌週、イリノイ州でのメジャーの前にも。
'03年、宮里がアマチュア優勝を遂げたときのことを、畑岡は「(リアルタイムでは)知りませんでした。まだ4歳でした」という。'09年の米ツアー初勝利、フランス・エビアンマスターズの様子は夜中にテレビで観ていたが、彼女たちは、いわゆる沖縄から世界に羽ばたく“藍ちゃんの成長物語”を知らない世代だ。
だから畑岡にとって、宮里藍は記憶のはじめから海外で活躍するスーパースターだった。そんな人とプレーをともにして、直接アドバイスももらえる。試合後、10分以上も悩みを聞いてくれることもあった。日本で多くの女子プロが聞けば、指をくわえる話かもしれない。