酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
ロッテのチーム打率が衝撃の1割台。
戦後最低をひた走る歴史的な貧打線。
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byKyodo News
posted2017/05/09 07:30
不振に陥った主力が1人ならまだ手の打ちようがある。しかし打率1割台以下がスタメンに約半数並ぶこともあるのが、ロッテの現状だ。
エース涌井は6試合投げて援護点がわずか11。
当然ながら、投手への援護も貧弱だ。
エース、涌井秀章は防御率2.66だが1勝3敗。6試合で13失点だが、援護点はそれを下回る11点。
唐川侑己は防御率4.71で1勝5敗、6試合で21失点に対して援護点はわずかに8。
働けど働けど、猶わがマウンド楽にならざり ぢっと手を見たくなるような成績だ。
これだけ打線が弱くて勝てるわけもなく、8勝21敗1分け、前年の覇者・日本ハムが低迷していたため、しばらく5位だったがついに抜かれて最下位に。首位楽天とは13ゲームの大差がついた。
戦後で見てもワースト5はすべて'50~'60年代の記録。
チーム打率1割台は、今の野球ではありえない低打率だ。戦前は物資が不足し、ボールも粗悪だったのでチーム打率が2割を切るケースも珍しくなかった。しかし、1944年の産業軍(中日ドラゴンズの前身)の.184を最後に途絶えている。
1944年と言えば終戦の前年、この年を最後にプロ野球が中断するという切迫したシーズンだった。
千葉ロッテのチーム打率が1割台で終わるとすれば、1944年以来実に73年ぶりの大記録と言うことになる。なお、戦後のチーム打率ワースト5傑は以下の通りだ。
1.1962年 国鉄スワローズ .201
2.1956年 大洋ホエールズ .2076
3.1955年 大洋ホエールズ .2087
4.1956年 広島カープ .213
5.1957年 大映ユニオンズ .2134
5つとも、50年以上前の昭和中期の記録だ。ちなみに最低打率となった1962年国鉄の監督は、立教大時代の長嶋茂雄の恩師だった砂押邦信。大エース金田正一は22勝を挙げたが黒星も17を重ねた。それを踏まえればロッテの低打率は、今どきの記録ではないことがこれでもわかる。