スポーツ・インサイドアウトBACK NUMBER
フェルナンデスと作家キンセラ。
ふたりへの追悼と、イチローと。
text by
芝山幹郎Mikio Shibayama
photograph byAFLO
posted2016/10/01 11:00
現地時間9月26日、マーリンズは試合前にフェルナンデスを追悼するセレモニーを行ない、同僚も追悼の念をベースボールキャップに込めた。
キンセラの小説は日本でも人気があった。
フェルナンデスが事故死する少し前の9月16日には、旧知の作家W・P・キンセラが81歳で安楽死を選んだ。しばらく連絡を取り合っていなかったので健康状態の詳細はわからないが、もともと糖尿病を患っていた。
1995年の9月、ドジャー・スタジアムで一緒に野球を見たときから、そのことは口にしていた。それなのに、イニングの合間になるとピザやアイスクリームを買って、にやにやしながら私にも勧めてくる。
「糖尿病に障らないのか」と訊くと、「夜の7時過ぎは、自分の身体を裏切ってもかまわないんだ」と答える。その顔が、いたずら好きの子供のようだった。あのときは、野茂英雄の試合を見ようというプランだったのに、野茂の登板が前日の対パドレス戦に繰り上がったため、ふたりでドジャース対ロッキーズの試合を見たのだった。
初めてキンセラに会ったのは、1990年の秋だ。カナダ西部の紀行文を書く仕事を引き受けていた私は、その合間に、ヴァンクーヴァー南郊のホワイトロックという町で彼にインタヴューをしたのだった。キンセラの小説は日本でも人気があった。永井淳さんの邦訳の力もあって、『シューレス・ジョー』、『アイオワ野球連盟』、『インディアン・ジョー/フェンスポスト年代記』といった著作がつぎつぎと刊行されていたのだ。いうまでもないが、映画『フィールド・オブ・ドリームス』('89)の原作は『シューレス・ジョー』である。
「イッチロー」の叫びに、ボンボ・リベラを思い出す。
陽当たりのよい彼の家で、われわれは2時間以上話し込んだ。大草原の話やマジック・リアリズムの話が出たのは当然だが、野球や相撲の話も止まらなかった。ハワイでダイジェスト番組を見て以来、キンセラは大の相撲好きになっていたのだ。部屋の壁に番付を貼っているくらいだった。
キンセラとはシアトルでも会った。2001年6月末、「新人」イチローを見ようじゃないか、ということになったのだ。このときは、2試合を一緒に見た。初日がナイトゲームで、2日目がデーゲーム。マリナーズ対アスレティックスの連戦で、イチローはティム・ハドソンやバリー・ジートと対決した。
「観客がイッチローと叫ぶと、ボンボ・リベラを思い出すなあ」とキンセラはいっていた。リベラは'70年代後半にちょっと活躍した選手だが、名前がおかしかった。もちろん卑猥な意味もあって、当時の観客は「ボンボ! ボンボ!」と叫んでは大笑いしていたそうだ。