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賞金王・小田孔明の「屈辱と激情」。
負け犬、ケンカ、そして石川遼――。
text by
桂川洋一Yoichi Katsuragawa
photograph byAFLO
posted2014/12/10 10:40
JTカップを3位でフィニッシュし、36歳にして初めての日本賞金王に輝いた小田孔明。因縁の石川遼を5打上回り、また一つ借りを返した日でもあった。
諸葛亮孔明から取られた名前も嫌いだった。
諸葛亮孔明から取られた珍しい名前も嫌いだった。今でこそ、漫画『三国志』(横山光輝著)、孔明の最期が描かれた59巻を読み返せば必ず涙が出る。だが「学校で最初からちゃんと呼ばれたことはなかった。コウミンなんて言われたり」。漢字でサッカーは蹴球、バスケットボールは籠球、ゴルフは実は孔球(打球)と書くのだが、そんなことを周囲が知る由もない。
心に深い傷を負った小学校の卒業式。生徒が夢を発表する場で「プロゴルファーになりたい」と宣言すると、父兄に大笑いされたという。うつむいて、悔しさを噛み殺しながら心に誓った。
「こいつらをいつか見返してやる」。成長の原動力は、屈辱を味わうたびにいつも湧き上がる、そんなシンプルな反骨精神だった。
「パターは谷口さん、ロングアイアンは伊澤さん」
プロとしての道のりは順調そのものである。2007年に初シードを獲得してから、年間の賞金ランクが最も低かったのは'08年の13位。高いレベルで安定した成績を残し続けてきた。
人並み外れた反骨心を武器にステップアップしてきたキャリアについて、小田は「出会ってきた人に本当に恵まれた」と振り返る。
千葉の高校を卒業した後、11もの大学からのオファーを蹴って地元に帰り、ゴルフ場の研修生になった。しかし19歳の時に腰を患い、実戦から離れる時期を経験した。専門知識もないままに続けた筋トレで、体重は120kg。小田の身体を心配した先輩の忠告が、才能を一気に開花させた。
「『お前、もう何もするな』と言われて。何カ月か休んで、プロテストの2カ月前からボールを打ち始めたら、すごい球が出るようになった」
2000年のテストで一発合格。筋骨隆々のままでいたら、今の彼はなかったかもしれない。
プロになった後も、同じ福岡には伊澤利光や手嶋多一ら優秀なゴルファーが多くいた。父以外に特定のコーチはつけず、テークバックでインサイドに入る独特のスイングは我流で磨いてきたが、困った時には巨体を折って頭を下げ、屈託なく先輩に教えを請うた。
「パターは谷口(徹)さん、ロングアイアンは伊澤さん、グリーン周りは中嶋(常幸)さんなんて具合。自分の悪いところを探して、練習で一緒に回らせてもらった」。肩ひじを張らず、先輩を“処方箋”に見立てる。出会いで得たチャンスを謙虚に活かしてきた。