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「また力の限りやってみたい」
柴田未崎、36歳の騎手再デビュー。
text by
島田明宏Akihiro Shimada
photograph byAkihiro Shimada
posted2014/02/15 08:20
競馬学校を卒業したばかりの“同期”と写真におさまる柴田未崎(右端)。一人だけ保護者のような貫禄を放っている。
限界を感じ、調教助手となったが……。
デビューした年は12勝、2年目は18勝、3年目は19勝とまずまずの成績だったが、ベテラン騎手より軽い斤量で乗れる「減量」の特典がなくなってから勝ち鞍が激減。一年にひと桁しか勝てなくなってから障害レースに活路を見いだすも、'09年には平地、障害ともに0勝に終わるなど苦しんだ。
「限界かな」と感じ、'11年3月に引退。斎藤誠厩舎所属の調教助手となった。
しかし、怪我や体力の衰えなどの肉体的な理由で辞めたわけではないだけに、「まだやれるのでは」という思いが、胸の奥でくすぶりつづけていたようだ。
そんなとき、気持ちを奮い立たせる出来事があった。
「一番大きかったのは、兄の大知の活躍ですね。同じようにやれるとは思っていませんが、自分にできることがあるのなら、また力の限りやってみたいな、と」
兄の柴田大知もまた、減量が外れたころから勝ち鞍が減り、'06、'07年は0勝、'08年は障害で1勝、'09年は障害と平地でそれぞれ1勝に終わるなど苦しんでいた。しかし、弟の引退と入れ替わるように勝ち鞍が増えはじめ、11年は20勝、12年は41勝。そして昨年はマイネルホウオウでNHKマイルカップを勝ち、平地GI初制覇をやってのけた。
復帰を考え始めたあたりに起こった「珍事」。
兄の活躍に刺激され、また、妻の後押しもあり、柴田は'12年の終わりごろから騎手復帰を真剣に考えるようになり、美浦トレーニングセンターの公正室に再受験について問い合わせるなどした。
その少しあと、昨年の1月20日には、中山と京都の障害レースで騎手不足のため2頭が出走を取り消すという「珍事」があった。外国人騎手や地方競馬出身騎手が続々と参入し、さらにエージェント(騎乗依頼仲介者)制度の浸透によって一部の騎手に良質の騎乗依頼が集中し、JRA所属騎手の淘汰が進んだ結果のことだった。その珍事発生の30年前には247人、10年前には166人いた騎手が、今や124人になってしまったのだから、淘汰が進みすぎたと言っていい。
そうした事態を踏まえてJRAが動き、「引退騎手の再受験」に関して、キャリアなどを考慮したうえで技術試験を免除するなど条件を緩和して、復帰への道筋を大きくひろげることになった。
そして昨年10月、外国人騎手や地方競馬所属騎手なども対象とした一次試験が行われ、柴田未崎がただひとり合格した。これは「ミルコ・デムーロが不合格になった騎手免許試験」として大きく報じられたので、記憶している方も多いだろう。
柴田はさらに、今年1月に行われた二次試験もパスし、晴れて「新制度における復帰第一号」として、再度騎手免許を手にすることになった。