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部活は大学の単位をとってから!?
野球と“学業”、“伝統”の関係。 

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小関順二

小関順二Junji Koseki

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posted2013/12/23 08:01

部活は大学の単位をとってから!?野球と“学業”、“伝統”の関係。<Number Web> photograph by AFLO

明治大学は本文中にあるように全体練習は朝練のみ。東京六大学リーグ、東都大学リーグともに学業優先の流れがある一方で、大学野球の部員数は増加し続けている。

 明治神宮大会を中継した『スカイ・A sports+』のお手伝いをした縁で、毎日同局の控室で昼食のお世話になった。食事はおいしかったが、そういう話ではない。同大会のスコア(記録)をつける数人の大学生のマネージャーと話す機会があり、大学球界のいろいろな話を聞くことができた。たとえば早大野球部では、岡村猛監督が就任してから野球部の歴史を積極的に部員たちに教えるようになったらしい。

 個人的な話になるが、先月『野球を歩く――日本野球の歴史探訪――』(草思社)という本を上梓したこともあり、『早稲田大学野球部百年史』や『慶應義塾野球部百年史』など大学野球の資料を読む機会を得た。たとえば早大野球部は日露戦争が行われている明治38年、総勢13人を引き連れて約3カ月間(船中泊を含む)に及ぶアメリカ遠征を行っている。

 この遠征が日本野球にもたらしたものは多い。たとえば戦術として用いられるバント(スクイズなど)、ウォームアップ、スローボール(チェンジオブペース)、投手のワインドアップ、フックスライディングなどは遠征前には日本で行われていなかった。キャッチボールは最初から力いっぱい投げ合い、スライディングはすべてヘッドスライディングで行われていた。

日本史上初のプロ野球チームを作ったのも、早大野球部OB。

 最初のプロ野球チームを作ったのも早大野球部OBだ。アメリカ遠征で26試合中24試合に登板し「アイアン・コーノ」(鉄腕河野)の異名で呼ばれた河野安通志が大正9年秋、早大時代のチームメート、押川清、橋戸信とともに設立した日本運動協会(通称芝浦協会)がわが国最初のプロ野球チームである。

 同協会の草創期から終焉までを描いた『もうひとつのプロ野球』(佐藤光房、朝日新聞社)は誕生の背景について「いまの学生野球は学生のくせに学問を軽視し、スター気取りで、学校の宣伝の具に堕している」という押川の言葉を紹介している。

 当時、職業野球は賤業と見なされ、ゲーム中には「商売、商売」という野次が頻繁に飛んだという。しかし河野たち首脳陣にはスター気取りの学生野球を独走させないためにも「日本運動協会が模範的なチームとなり、学生野球と人気を二分するようなチームにならなければいけない」という揺るぎない信念を持っていた。

 そのため、合宿生活はひたすらストイックで、飲酒、喫煙は厳禁、河野などは野球理論とともに簿記と英語という直接野球と関係のないものも選手に教えた。いずれ野球界のリーダーになるプロ野球選手なら教養を身につけ、誰からも尊敬される存在にならなければならない、そう思ったからだ。

【次ページ】 六大学も、リーグの歴史を新人に教え始めた。

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