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カルチョの名将は日本をこう変える!
“ザック・ジャパン”の方向性を探る。
text by
佐藤俊Shun Sato
photograph byGetty Images
posted2010/08/31 12:00
南アフリカ・ワールドカップでスペインが劇的な初優勝を達成後、50日目となる8月30日、ついに日本代表の新監督が決まった。
ここまで元アルゼンチン代表監督のホセ・ペケルマン(アルゼンチン)、元オランダ代表監督のマルコ・ファンバステン(オランダ)、元ベティス監督のビクトル・フェルナンデス(スペイン)、元ビジャレアル監督のエルネスト・バルベルデ(スペイン)など、様々な名将の名前が挙がった。だが、最終的にブラジルW杯への舵取りを任されたのは、ACミランでスクデット獲得経験があり、日本初のイタリア人監督となるアルベルト・ザッケローニだった。
新監督の条件として原博実強化担当・技術委員長は、「世界の高いレベルのリーグを経験し、日本をリスペクトし、日本で指揮を執りたいという意欲を持ち、日本人スタッフとやってくれる人」を挙げ、かつ「パラグアイ戦のような試合で得点ができるようなチームを作れること」「日本をベスト16以上に導いてくれること」を掲げている。ブラジルW杯に向けて招聘された指揮官は、こうしたミッションを果たすことができるだろうか。過去の指導歴から、その可能性を探ってみる。
イタリア人監督だが“カテナチオ”を採用しない!?
愛称「ザック」で親しまれている指揮官が標榜するサッカーは、イタリアの伝統的な“カテナチオ(堅守)”ではなく、攻撃的なサッカーである。そのサッカーを開花させたのは、1995-1998で指揮を執ったウディネーゼの時だった。
当時、ウディネーゼはセリエAとセリエBの間を行き来する中堅クラブだったが、オリバー・ビアホフ、マルシオ・アモローゾを獲得し、3バックを採用。3-4-3、3-4-1-2というシステムを導入し、イタリアでは考えられない攻撃的サッカーで、チーム作りを始めた。すると、1997-1998シーズン、そのサッカーが実を結んだ。ACミラン、インテル、ラツィオなど強豪クラブに対しても一歩も怯むことなく、攻撃的な姿勢を貫いた。その結果、ビアホフが得点王になり、チームも3位に躍進。“奇跡のウディネーゼ”と称賛され、翌シーズンにザックはACミランの監督という座を獲得したのである。
この成績もさることながら、ザックの凄さは、まだ若く、未完の選手を積極的に登用し、勝てる攻撃サッカーを実現したその手腕にある。まず、セリエBのアスコリでゴールを量産していたビアオフを見いだして、トップに置いた。メンタル的に気弱だったビアホフを起用することで中心選手であることの自覚を促し、得点王にまで育てた。また、ブラジルに帰っていたアモローゾを獲得し、持味のスピードとテクニックを発揮させ、攻撃にエッセンスを加えた。ザックがウディネーゼを去った1998-1999シーズンにアモローゾはセリエAの得点王になる。ザックは再生工場としての能力も発揮したのである。