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<ナンバーW杯傑作選/'93年11月掲載> 夢の終わり、真実の始まり。 ~ドーハの悲劇。ラスト10秒で地獄へ~ 

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大住良之

大住良之Yoshiyuki Osumi

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photograph byNaoya Sanuki

posted2010/05/11 10:30

<ナンバーW杯傑作選/'93年11月掲載> 夢の終わり、真実の始まり。 ~ドーハの悲劇。ラスト10秒で地獄へ~<Number Web> photograph by Naoya Sanuki

「日本のサッカー」とは何か――議論もされなくなった。

 代表チームというのは、その国のサッカーにとって「ひとつのチーム」以上の意味をもっている。代表チームのプレーはその国のすべてのサッカーチームの指標となり、その国のサッカーを方向づける。こうした傾向は、アジアやアフリカなどの「サッカー後進国」ではとくに顕著だ。

 最近ではあまりいわれなくなったが、以前はよく「日本のサッカーの確立」が叫ばれた。イングランドにはイングランドのスタイルのサッカーがあり、ドイツにも、フランスにも、ブラジルにも、アルゼンチンにも、それぞれのにおいがしみついたサッカーというものがある。

 それでは「日本のサッカー」とは何なのか。かつての日本サッカーのリーダーたちは、ある人はドイツにその道を求め、ある人はブラジル・スタイルを取り入れようとした。またあるときにはポーランドのサッカーが理想だといい、数年後にはオランダのサッカーを追い求めてきた。

 だが、最近ではほとんどそのような議論はなされなくなっていた。「日本のサッカー」が確立されたわけではなく、ただみんなそれぞれに違った方向を向いて、一生懸命にペダルを踏んでいるといった状況だった。それは代表チームがはっきりとした形で「日本のサッカー」を示すことができなかったからだ。

オフトの施した戦術的トレーニングがもたらしたもの。

 一度だけ、日本のサッカーは指標となるべきモデルを持ちかけたときがあった。それが'85年、ちょうど8年前のワールドカップ予選のときだった。森孝慈監督がつくった日本代表は、加藤久の守備の組織力と、木村和司、水沼貴史の類まれなコンビプレーで勝ち進みながら魅力に富んだプレーで日本中のファンを引きつけた。しかし最終予選で韓国に屈した後、方針は百八十度転換された。

 森監督の後を継いだ石井義信監督は極端に守備に重点を置いたチームをつくり、そのチームはオリンピック出場へあと一歩のところまで迫ったが、けっしてサッカーファンに愛されたチームではなかった。

 そうしたなかで、「日本のサッカー」というテーマも、忘れ去られようとしていた。

 だが、ハンス・オフトは、日本のサッカーに最も欠けていた戦術的なトレーニングを施し、選手が無意識のうちにそれを実行できるまで鍛え上げることによって、初めて「日本のサッカー」確立への可能性を開いた。テクニックの良さをベースに、11人を組織として攻守に結びつける非常にオーソドックスなものだったが、効果は劇的だった。 

 いま、日本中の多くのチームがオフトのサッカーに目を向けている。Jリーグ・レベルのチームも例外ではない。オフトがつくりあげたチームのプレーは、たくさんの勝利、ふたつの大きなタイトル以上に、日本のサッカーの「壁」である戦術的な能力不足を突き破る力を持っていたからだ。

 その意味で、今回の予選の結果は、非常に残念なものだった。アジアや欧州の多くの専門家が認めるように、日本は今回の6チームのなかでも世界に通じる可能性を持った唯一のチームだった。今回勝ち、来年のアメリカでそれを証明することができれば、「日本のサッカー」は自動的に確立されただろう。

【次ページ】 育成段階からオフトに全権を委任するべき理由。

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