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一人でスペインを変えたアロンソ 

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西山平夫

西山平夫Hirao Nishiyama

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photograph byMamoru Atsuta(CHRONO GRAPHICS)

posted2006/05/23 00:00

一人でスペインを変えたアロンソ<Number Web> photograph by Mamoru Atsuta(CHRONO GRAPHICS)

 カタルーニャ・サーキットのスタンドは青一色に染められていた。スペイン・グランプリ決勝当日、サーキットに詰め掛けたファンの数、実に13万1200人(主催者発表)。観客動員では世界に冠たる鈴鹿サーキットも顔負けの数。スペイン・グランプリがヘレスからカタルーニャ(バルセロナ)に移ったのは1991年。それ以来ずっとこのサーキットに来ているが、これほど多くの数の観客を観たことはなかった。そしてその圧倒的な“数”と、5月の空も色を失うほどの青色のキャップを被り、Tシャツを着、旗を振るアロンソ・サポーターに感動したのだった。

 具体的な数字を記憶しているわけではないが、スペイン・グランプリはポルトガル・グランプリ(1996年が最後の開催)と並んでお客さんの入りの悪いレースという印象が永くあった。自国のグランプリ・ドライバーがいないわけでもないのに、イベリア半島のモータースポーツ・ファンはF1グランプリより2輪の世界グランプリや世界ラリー選手権の方が好みだったようだ。F1の入場料が高すぎるという事情があったかもしれない。

 「3年前のスペインのF1ファンは50万人だった」と、フェルナンド・アロンソ。これは主にTV観戦人口を指している。しかし、他ならぬそのアロンソがチャンピオンになったことで「いまや1000万人になった」とアロンソは誇らしげに語る。

 そのチャンピオンをひと目見んものとスペインのファンが続々とサーキットに詰め掛けたおかげで、決勝当日の高速出口とサーキット周辺は大渋滞。これもいままでにないことで、たった一人のスターの出現がいかにそのスポーツの状況を変えるかという事実をまざまざと見せ付けられた。アロンソはスペインにおけるF1を、サッカーや自転車と同じメジャー“スポーツ”として認知させてしまったのだ。1990年代のシューマッハーの出現が、ドイツにF1フィーバーをもたらしたのとまったく同じ現象である。シューマッハー出現まで、ドイツはむしろF1後進国だった。

 それだけにアロンソへのファンの期待は過大に近いものがあった。まず自国グランプリ初のポールポジション奪取を要請させられる。これは予選にだけ集中した戦略を採ればそれほど難しいことではないにしても、最初の敷居をまたげば次には自国グランプリ初制覇というさらに高い壁が待っている。予選でも速く、レースでも強くという要請が不可能に近いことなどファンは関係ない。ところがそうした苦しい戦況をアロンソはプレッシャーと感じず「スタンドのボクのサポーターが声援してくれるから」と、むしろ楽しんでいるようだった。

 そして決勝。最大のライバルであるフェラーリのペースが予想を大きく下回ったことが追い風となって、アロンソは絵に描いたようなポール・ツー・ウインを飾る。フェラーリの追撃が不発だったことは嬉しい誤算だったが、これこそ「運も実力のうち」なる古典的格言がそっくり当てはまるレースだった。チャンピオンの凱旋レースを、アロンソは完璧な勝利で応えた。

 グランプリの週末3日間、カタルーニャ・サーキットは合計34万3100人の観客を飲み込んだ。経済波及効果も無視できない数だ。

 「4月のテストの時のスタンドはカラッポだったのにね」

 会心の笑みを浮かべるアロンソがサーキットビジョンに大写しになり、その映像に向けて青地に金の十字架を染め抜いた勝利の旗(クルス・デラ・ヴィクトリア)が狂ったように打ち振られる。アロンソの出身地オビエドのアストゥリアス州旗である。まるでサッカーのチャンピオンズリーグでも観ているかのような今年のスペイン・グランプリだった。

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