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名牝ウオッカ 64年ぶり夢の戴冠。
text by
阿部珠樹Tamaki Abe
posted2007/06/14 00:00
レースの前は、馬よりも人の影の濃いダービーだった。濃くなりはじめたのはレースの10日ほど前からだったろうか。皐月賞は4着に敗れたものの、多くのダービー馬を出している弥生賞の勝ち馬で、本番でも上位人気になることが確実なアドマイヤオーラの騎手が交代した。大一番を前にした乗り替りは珍しくないが、降ろされたのが武豊となると話は違ってくる。オーナーの強い意向によるものと伝えられたが、多くのGIを勝ってきたアドマイヤの近藤利一オーナーと武豊のコンビにどんな亀裂が生じたのかははっきりしなかった。しかし、日本一の名騎手の、有力馬からの降板は、ダービーの波乱を予感させると同時に、大レースにかける人の執念の強さをあらためて示したといえる。
皐月賞が人気のない馬の1、2着で決着したことから、今年のダービーは混戦と思われたが、いざ馬券が売り出されると、皐月賞3着のフサイチホウオーが圧倒的な人気を集めた。たしかにフサイチホウオーが皐月賞で見せた追い込みは迫力があった。中山の短い直線であそこまで追い詰めたのだから、直線の長い東京コースのダービーならと、多くのファンが考えるのは不思議ではない。だが、3着は3着である。皐月賞で敗れた馬がダービーで単勝2倍を切る圧倒的な人気を集めるというのはあまり記憶にない。ここにも人の影が濃かった。
フサイチホウオーの関口房朗オーナーは競馬界の名物男である。日米のダービーを勝ったことのあるただひとりの馬主というだけでなく、高い馬を買いまくる金満ぶりや派手な言動でつねに注目を集めてきた。この春も200万を超える大波乱になったヴィクトリアマイルの3連単を的中させて2億円あまりを手に入れたと話題になっていた。
「負ける気がしない。騎手のアンカツくんが落ち着いて乗れば大丈夫」
レースの前から勝利宣言をし、当日にはボクシングの亀田ファミリーなどの応援団を引き連れて乗り込んできた。名物オーナーの強気が、フサイチホウオーの人気を力以上に高めたところはなかったろうか。
馬よりも人の影の濃いダービー。レース当日は皇太子殿下が来場され、総理大臣夫妻も顔を見せた。主催者のCMに出演している俳優の織田裕二、競走馬のオーナーでもある元メジャーリーガーの佐々木主浩などの姿もあり、一見華やかな雰囲気だったことは確かだ。
しかし、ディープインパクトという圧倒的な主役が居た一昨年のダービーは、ゲストの顔ぶれなど誰も注目していなかった。人の影の濃いダービーは、軸になる馬の不在を示しており、「フサイチホウオー断然」という馬券の売れ方ほどの安定感はないようにも思われた。
人の影もゲートが開けば薄くなる。レース序盤で主役を演じたのは皐月賞馬のヴィクトリーだった。皐月賞で2コーナーから先行して逃げ切ったヴィクトリーは、この日もレースを先団で引っ張るものと思われていた。ところが大きく出遅れ、正面スタンド前では後方から2番手。ヴィクトリーの騎手、田中勝春は覚悟を決めて追い込みに賭けようと考えた。しかし、2コーナーで前の馬との間隔が開くと、ヴィクトリーは奔放な気性のままに一気に馬順を4番手まで押し上げた。レース序盤でこれだけ無理な脚の使い方をしたのでは勝ち目はない。向こう正面で、2番人気の皐月賞馬は早くも圏外に去った。
そのヴィクトリーの一気の追い上げに、過敏に反応してしまったのが1番人気のフサイチホウオーだった。遅れてはならじと行きたがるそぶりを見せ、直線まで脚を貯めたい安藤勝己との折り合いを欠く様子が双眼鏡でもはっきり見えた。
この時点で、平穏な結末を予想した人はよほどのんきか強気な人だったろう。14番人気のアサクサキングスが逃げ、皐月賞で大穴の原因を作ったサンツェッペリンが2番手で追う。スローな流れで逃げ馬は十分に力を蓄えた。直線を向いても、後続はなかなか先行する2頭に追いつけない。その中からただ1頭、黒い馬体が抜け出してきた。黄色い勝負服とのコントラストが鮮やかなウオッカだ。すばらしい瞬発力で先行する2頭を捕らえると、残り100mでは一気に差を広げ、3馬身差でゴールした。
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