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伊東勤 ライオンズの明日のために。
text by
永谷脩Osamu Nagatani
posted2005/02/17 00:48
宮崎県に35年振りという小雪が散らついていた。高台にある南郷スタジアムには、日本一を示すグリーンのチャンピオンフラッグが引きちぎれんばかりに翻っていた。頂点を極めたチームの初陣にしては、30人と報道陣は少なく、新規参入の楽天の10分の1の数だ。西武ライオンズの置かれている現状を示しているかのようだった。伊東勤監督がナインを集めて言ったのは、優勝でも、日本一の連覇という景気のいい言葉でもなかった。“今、野球がやれる喜び”であった。
「本来、現場というのは、勝つことだけにこだわっていいはずです。でも西武の置かれている立場はそうじゃない。いつ、球団がなくなってもおかしくない状況です。こうして野球がやれたということだけでも大変なことなのかもしれない。だからこそ、後で悔いを残すことだけはやめようと言いました。自分たちのやれることを全てやろうと」
西武球団の本体であるコクドは、堤義明オーナーの辞任のきっかけとなった、有価証券報告書への西武鉄道株の虚偽記載問題と、この事実を隠蔽して取引会社約70社へ西武鉄道株を売却したことにより、大きく揺れた。球団組織もオーナーが代わり、星野好男球団代表がオーナー代行に就任、黒岩彰が球団代表となり、ガラリと体制が変わった。本体の西武鉄道は経営の根本的な建て直しを迫られ、「西武グループ経営改革委員会」を発足。この秋には、球団存続の意義が検討されると言われている。加えて、二軍と西武ドームの命名権を情報サービスの大手、インボイスに売却する計画が進められるなど、球団経営のスリム化が図られつつある。
「日本一になって、“ああ良かったな”という野球人としての幸せを味わったのは、シリーズ後、5日間ぐらいだけだったかな。グループの問題はマスコミで発表される前に、すでに知らされていたけれど、球団がどうなるのか先は見えてなかった。何も知らない周囲の人々から、“日本一、おめでとう”と言われると、“ハイ、ありがとう”と作り笑いで答えてましたが、内心では複雑な思いでした。本当のことを言えない苦しさっていうのでしょうか。だから、オフの間、考えることといえば、来季をどう戦うかというより、チームがどうなるのか、選手たちが妙に動揺しないだろうか、モチベーションをどこまで保つことができるか、ということばかりでした。
本来、西武の契約更改は、日本一になった時には、戦った仲間にそれなりに還元されるというやり方だった。ところが昨年は少々違っていた。優勝したから良かった、というものが少なかった気がする。選手と球団の関係が大きくこじれないで安心した反面、選手たちは本当によくやってくれたと言いたい。オフの間は、選手の頑張りに対して報いてあげられないもどかしさと、今後の影響をずっと考えていました」
日本一になった埼玉県所沢での報告会以来、ナインが久々に一堂に会したのは、1月28日の出陣式であった。集まった過去最高のファン三千余人は、口々に“ライオンズ頑張れ” と連呼していた。広岡達朗の第1期黄金時代にも、森祇晶の第2期黄金時代にも見られなかった光景に、伊東監督は、“やっぱり勝たなければ駄目だな”と思ったというが、果たしてそれだけだろうか。
西武創設期、ファン拡大のために、所沢市内の小学校を訪問、レオマークの帽子を配って、ファンを獲得して歩いた先人たちが作り上げたものが、球団存続の危機において、生きているのかもしれない。“西武がどうのこうのよりも、ライオンズが好きだから ”という言葉をここにきて、何度か耳にしている。
「こういう状況のときには、人の温かさやファンの優しさというのを肌で感じる。僕の野球人生って、いい時に何かさらわれるような運命のようなものを感じるんです。でも、割合、切り換えは早い方ですね。捕手っていうポジションで育ったこともあるのかも知れません。その日、打たれた投手のことを引きずっても仕方がない、次の日の先発投手に気持ちを切り換えてやっていかないといけなかったから、案外、自分の中で解決していける部分がありました。
昨年のキャンプのとき、私は“2、3年後を見越したチーム作りをするのではなく、今年に勝負を賭けたい”と言いました。松井稼頭央(メッツ)が抜けるのはわかっていたし、投手陣も新旧の入れ替えの時期だったから、2、3年後を見越してのチーム作りをすべきだという声が多かったけれど、私の中では“シーズン3位まで優勝の可能性のあるプレーオフ”がある限り、勝負できると思っていた。指揮官が優勝できなくてもいいと考えていたならば、選手は絶対についてこないでしょう。ずっとチームを見ていて、このチームはいきなり、5位、6位のBクラスに落ちるチームではない、常に、優勝争いの中で戦えると感じていました」
星野オーナー代行は、伊東監督について、“現役当時のデリケートな部分と違い、意外なほどデンと構えていて、こっちのほうがびっくりするほど”と評価している。それは主砲、カブレラが骨折した後、貝塚政秀を起用し続けて、不動の3番に据えたこと、また、中島裕之を使い続けて、一人前に育てあげた実績からもわかる。
土井正博ヘッドコーチは「監督には必ず恩返し出来る日が来るので、今は我慢してください、とお願いしていたのですけれど、よく我慢してくれました」と感謝している。
「育てようとか、作ろうとか、最初からそんな考えを持って使っていたわけじゃない。左の代打がほしいと思って、上で使ってみたら、結果を出して、自分の手で掴んでくれたのが貝塚なんです。だから、カブレラが復帰したときにも、“貝塚がいいから使う”と本人にキチンと説明しました。選手には自分の思っていることを直接伝えることにしています。このキャンプでも、ある若手が辛そうにしていたから、“この程度で音をあげるなら、所沢に戻そうか、楽になるぞ”って声をかければ、“頑張ります。上においてください”って返事が返ってくるんです。
なんでもそうだと思うんですけれど、感じたことは直接、選手に話すべきじゃないでしょうか。日本シリーズの野田浩輔もそうでした。プレーオフまで順調にきていた。初戦もうまくいったけど、それを2戦目以降のリードに活かすことが出来ていなかった。そして戦いが進んでいくうちに、パニック状態になっていった。そこで、“どうなんだ”と聞いたら、“何がなんだかわかりません”というので、細川亨に代えた。本人も納得しての交代だから、あとには残らない。問題はこの経験を今シーズンにどうやって活かしてくれるかなんです。自分も現役時代、日本シリーズのような大きな試合を経験することで、とてつもない財産を掴んだ。若い連中が苦しさの中で掴んだ自信を持っていてくれれば、今年も戦力的には十分に戦える」
伊東監督自身、昨年4月の就任早々、ダイエーに3連敗を喫して、札幌に乗り込んだあたりで、 “かなりバタバタしていた”と当時を振り返る。その時に、“自分がバタついても何にもならない。やるのは選手自身なんだから”と開き直れたというのだ。伊東を冷静にさせたのは、同じチームでずっと一緒に選手とすごして磨いた洞察力と、これまで何人かの監督の下で仕えたときにメモした、“これをしたら選手はイヤになる”という指揮官にとっての“べからず集”の存在だった。
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