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鄭大世はどこから来てどこへ往くのか。 

text by

吉崎エイジーニョ

吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki

PROFILE

photograph byTakuya Sugiyama

posted2008/05/05 17:21

鄭大世はどこから来てどこへ往くのか。<Number Web> photograph by Takuya Sugiyama

 朝鮮大時代の監督キム・グァンホは「いいものを持っているが、このままだと天狗になってしまいそうだから」と高校の監督にテセを紹介された。だから、鍛えてやってほしいと。愛知県内ではほどほどに有名な、荒削りのストライカーに過ぎなかった。髪の毛も尖っていたのだという。

 朝鮮大は'03年から「特設班」を設け、サッカーの強化に入った。テセはその1期生だった。しかし、実態は東京都大学リーグ下部(大学トップの関東1部リーグから3~4カテゴリー下)のチーム。筋トレルームには、武道系の部員の汗臭いにおいが充満していた。

 19歳、20歳と時間が過ぎていった。

 監督にはプロ志望を伝えてあった。しかし、何のあてもなく、くすぶる日々が続く。

 ハットトリックを決めた試合があった。オーバーヘッドシュートを突き刺したこともある。でもプロのスカウトが目にすることはない。情報だけを聞いても誰も気に留めないだろう。諦めに似た感情もよぎった。

 時には、都リーグ2部のチーム相手に力が発揮できないこともあった。次第に不満が充満していく自分を感じた。

 「言っちゃなんですが、『この狭い世界で終わりたくない』という考えはありましたね。ネガティブな表現かもしれないけど、鬱憤が溜まっていた。日本のサッカー界に出て行きたい、自分の力を試したいという意識はありましたよ。自分の世界をつくっていくことは大事だと思う。でも、おれは祖国と比べて、自由な国に生まれたことを知っていた。だから、行けるところまで行きたかったんです」

 少しずつ、日本の周囲の環境が見えてきた。中央線沿線にはリーグのカテゴリーと関係ない「教育リーグ」が存在し、他大学に試合に行くことも多かった。ある大学には、人工芝のピッチがあった。聞くと、Jのユースから上がって行くヤツのほうが、よっぽどいい環境にいるらしい。早稲田の矢島卓郎というFW(現清水)がプロの練習に参加した、と聞いたときはジェラシーを感じたりもした。自分は決して負けていないと思うのに。

 3年生の頃、横浜F・マリノスの練習に参加するチャンスがあった。

 キム・グァンホ監督は、現役時代、在日として初めて祖国の代表に選ばれたスター選手。時のF・マリノス監督、岡田武史とも親交があった。学生を見てほしいと頼むと、「練習くらいなら」とOKが出た。

 もっともメインは1学年上のMFキム・キス(元水戸、現福島)だった。「1人で行くのはなんだから」という理由でテセもついていった。チャンスは2日間。最終日には、紅白戦への出場機会を与えられた。

 後半からサブチームの一員としてピッチに立った。相手には、中澤佑二、松田直樹らそうそうたるメンバーがいる。

 松田に、こてんぱんにやられた。ボールをほぼすべて奪われた。

 岡田からは「まぁ面白いけど、アンバランスだね」と切り捨てられ、監督には短く「参った」と報告するしかなかった。

 マリノスの練習から戻ると、しばらく落ち込む時が続いた。テセはこうも思い始めていた。「20歳を超えているのに、日本社会に出たことがないのは恥ずかしい」。高卒後、日本社会に出ていたらそんなことは思わなかった。もちろん、朝鮮大の練習環境をつくってくれた在日社会への感謝は絶対に忘れないが。

 だが、キム・グァンホはこの経験がテセを変えたと見ている。

 「自分は、こんなチームでやっててプロになれるんだろうかっていう葛藤があったと思う。だけど、そこで、落ち込む子と奮起する子がいるじゃない?― でもコイツは、またがんばったんだよね。学生レベルでの目線から、上を見る目線になった。卒業したらアイツらとやらなきゃいけないんだ、と。良い意味でステップアップになったと思いますよ」

(以下、Number702号へ)

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