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川淵三郎 「いつも強行突破。だから変えられた」
text by
武智幸徳Yukinori Takechi
photograph byTabashi Shirasawa
posted2008/05/29 17:57
──プロリーグを立ち上げるだけでなく、'91年から協会の強化委員長として代表強化の責任者に戻ったのは、どうしてなんですか。
「このままでは日本は強くならない、と常々、協会の理事会で意見を言っていたんです。Jリーグの準備が順調に進んだこともあったのか、長沼(健)さんと岡野(俊一郎)さんに呼ばれて、技術委員長になってほしい、と。ついては、何でもやりたいことをやっていいから、何でも許可するから、って言われてね。日本のサッカーの強化に力を発揮できるなら、思い切ってやったほうがいいと考えたんだ。
それで一番初めにやったのが、日本代表監督の横山謙三をどうするかということだった。
きっかけは、代表チームと食事をしたときに、ラモスと三浦カズが、『プロの我々には勝利報酬が出るけど、学生とかアマチュアには一切出ない。彼らにも出してください』と談判に来てね。あ、こういうプロ意識を持った選手を率いるには、アマチュアでは難しいぞと感じた。ここから変えていかないかぎり、日本のサッカーはプロ意識を持ったものにはならない、と思ったんですよ」
──バルセロナ五輪最終予選を横山総監督で戦って敗退。'92年に初の外国人監督、ハンス・オフトを招聘します。
「横山は日本人の監督としてやるべきことをきちっとやったんだけども、まあ試合の結果は無残なもので。僕らと同じ延長線上では難しい。もう外国人監督しかないと思った。長沼さんや岡野さんには最初許してもらえなかったけど、外国人のコーチを調べはじめたんです。でも当時、各国協会とのコミュニケーションが良かったわけじゃないから、情報をもらいたくても聞かせてもらえなかった。
お金もそんなにないし、日本で過去に実績を上げた、日本のサッカーをよく知っている人を選んだほうがいいという話になって、いろいろ調べたら、オフトという名前が挙がってきたんだよ。オフトはヤマハを'83年の天皇杯に優勝させていたから杉山隆一から話を聞いたり、そのあとマツダ(現広島)でいい指導をしていると今西(和男)から聞いていたんで、Jリーグのヨーロッパ視察のときに会って、決断したんですね。
それで長沼さんと岡野さんにもう一度直談判した。だめと言うなら、『初めの約束と違うじゃないか。僕のやろうとしていることを認めると言ったじゃないですか』と言うつもりだった。それでもだめなら、僕は辞めようと思ってた」
──どうしても外国人でないと、いけなかったのでしょうか。
「やはりラモスのことが念頭にあったんだな。すごく優秀な選手でも、チームにとって良くない、ネガティブな部分があるとなった場合、監督はその選手を外さなければいけないわけだけど、その決断を当時の日本人の監督にできるだろうか、って考えていた。フランス代表でも、カントナを呼ばないという例があったでしょう。もしラモスに何かあって代表から外したとき、日本人監督なら批判されて、おかしくなっちゃうだろうけど、外国人監督なら平気だろうな、と思った。
そしたら案の定、ラモスが『ヨーロッパの監督なんて』とか週刊誌に話して、オフトが聞き咎めてということがあった。これをうまく乗り切って、ダイナスティーカップ('92年)で優勝して、ドーハの悲劇まで行くわけだけど、初めての外国人監督としては、オフトは大成功だったと思うね」