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川淵三郎 「いつも強行突破。だから変えられた」 

text by

武智幸徳

武智幸徳Yukinori Takechi

PROFILE

photograph byTabashi Shirasawa

posted2008/05/29 17:57

川淵三郎 「いつも強行突破。だから変えられた」<Number Web> photograph by Tabashi Shirasawa

 「前例踏襲」が嫌いである、と日本サッカー協会会長川淵三郎は言う。人のやらぬことを果断に進め、日本サッカーに長足の進歩をもたらしてきた。

 その大胆な手法、辣腕ぶりゆえに、川淵への評価は好意的なものばかりではない。

 だが、日本の閉塞状況と可能性を語るに、これほどふさわしい人物はいまい。まずは川淵の改革の道程をたどるところから始める。

──川淵さんが日本代表の強化に取り組むのは1980年から'84年まで日本サッカー協会強化本部で強化部長を務めたのが最初ですが、現在とはまるで状況が違ったようですね。

 「メキシコ五輪以降、アジアの中でも勝てなくなってしまってね。日本がとても弱かったことは、いま多くのファンは知らない。サッカーが好きだという人も、きわめて稀有でね。'74年に北朝鮮の平壌4・25というクラブが来日したとき、国立競技場で日本代表と試合をしたら観客の半数近くが在日北朝鮮の人だった。試合も0-4と歯が立たなくて、ホームでこれかよ、ってショックを受けたな。

 だから、日本サッカーを強くするには、今までにない手法をいろいろ講じなければ何も変えられない、これまでの延長線上で強化を考えてもダメだ、と思ったんです」

──まず手をつけたのが大幅な若返り。ロサンゼルス五輪予選を念頭に置いて、25歳以下で日本代表を構成しましたね。

 「当時、日本代表が海外遠征に行けるのは年に1回あるかないか。国際経験を積む場所が少なかった。その少ない機会を、できるだけ伸び代の大きい若手に与えよう、としたんだよね。中堅もベテランも全部切っちゃった。すごく抵抗があったという記憶?――あんまりないね。みんな強行突破やね(笑)。僕なりの意見を協会幹部に言うと、それなりに説得力がある。だいたい『まあ、しようがないなあ、サブが言うんなら』という感じでしたよ」

──そのとき選ばれたのが、金田喜稔、風間八宏、木村和司、都並敏史、岡田武史や山本昌邦、原博実もいた。しかし、ロス五輪予選は'84年の最終予選に進むも、そこで4戦全敗に終わりました。

 「思い切ってやった効果が出ている、と思っただけに、ショックだったな。強化本部は解散同然になって再建案を練ることになったのだけれど、その中心メンバーが旧態依然の顔ぶれで……。負けたのにまた同じ人でやるのか、と思った。もはや日本のサッカーは変わらないなあと感じて、サッカーと縁を切って、会社の仕事に集中しようと思った」

──それが'88年に、一転して戻ってくることになったんですよね。

 「仕事をしっかりやって、古河電工で、うまく行けば取締役ぐらいになるかな、なんて自信過剰な時期があったんだけど、関連会社に出向と言われて、サラリーマン人生の先が見えたということだね。このまま定年になったら、ほんとに面白くないや、と思ってね。ちょうど、JSL(日本リーグ)から総務主事をやってくれないか、という話が来ていて、もう一度サッカーに自分の半生を捧げてみよう、サッカーを日本の中でメジャーにしたい、と決意したんだ」

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