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ビジャレアル 「幸福な冒険」 

text by

熊崎敬

熊崎敬Takashi Kumazaki

PROFILE

posted2006/02/23 00:00

 その日、オレンジ畑に造成された練習場では、いつものように村の老人たちが世間話に花を咲かせていた。地声が大きいくせに、年寄りたちは日本人記者が話しかけようとするたびに尻ごみをし、「お前が行け」、「わしは嫌じゃ」とつまらないことで大騒ぎだ。柵の向こうの選手たちにふと目をやると、なぜかリケルメが涙目で立ち尽くしていた。ミニゲームで弱い組に入れられ、いじけたらしい。ビジャレアルの練習は、この退屈な村では貴重な娯楽のひとつである。

 いまから9年前、ビジャレアルは存続の危機に瀕していた。長くクラブを仕切ってきた会長が、家族の勧めに従って引退を決意した。地域リーグから2部、3部あたりを地味に潜行していた“イエローサブマリン”ことビジャレアルは、富や名誉をもたらすどころか会長にとっては気苦労の種でしかなかった。息子たちに跡を継ぐ気は当然なく、クラブは宙ぶらりんになってしまう。そんなとき村のためにとひと肌脱いだのが、フェルナンド・ロッチという男だった。国内2位のシェアを誇る企業「パメッサ」を所有するセラミック長者がクラブを買ったその日から、人口5万人弱の名もない村のクラブは壮大な冒険の第一歩を踏み出した。

 新会長は就任の席で、高らかに宣言する。

 「3年で1部に昇格し、いずれチャンピオンズリーグにも出場したい」

 だれもが耳を疑った。無理もない。それまでのビジャレアルは、3部に落ちないことだけを目標に戦っていたからだ。

 金持ちの道楽で、ロッチはクラブを買い取ったわけではなかった。彼の一族は、兄がかつてバレンシアの会長を務めていたようにサッカー狂としても有名で、本気でクラブを強くしようと考えていた。加えて、そのことが商売の追い風にもなると考えてもいた。

 体が3つあっても足りないくらい多忙の身でありながら、ロッチはホーム、アウェーにかかわらずいつも競技場に足を運んだ。“欠場”したのは、たったの1試合。余所様のビッグマッチにも勢い余って駆けつけた。

 2003年4月22日、バレンシアの本拠地メスタージャにロッチはいた。チャンピオンズリーグの荘厳なアンセムが流れる中、バレンシアとインテルのビッグネームが気合いに満ちた表情でピッチに登場する。そのとき彼は、興奮に身を震わせながら口にした。

 「ああ……我がビジャレアルも近い将来、この曲が流れる舞台に立ちたいものだ」

 あくる4月23日、今度はオールド・トラフォードにいた。3対4という歴史に残る赤い悪魔と銀河系軍団の激闘を堪能したセラミック王は、恍惚の表情で呟く。

 「ああ……我々もいつか、この素晴らしいスタジアムで試合をしてみたいものだ」

 これだけならただのサッカー狂だが、ロッチは着実に環境を整えていく。

 一面のオレンジ畑を買い取って、8面のピッチとユースの寮を兼ねたクラブハウスを新設。スカウト網を全国に張り巡らせ、いまやスペイン屈指と評される下部組織を作り上げた。また、「快適な生活があってこそ、選手は力を発揮する」という信念の下、遠征用にチャーター機を購入。そんなクラブはスペインにはマドリーとバルサしかない。

 その太っ腹な投資から、ロッチは「スペインのモラッティ(インテルの元会長)」とも喩えられるが、費用対効果ではロッチに軍配が上がる。リケルメ、ホセ・マリ、フォルラン、ソリンといったビッグクラブで一度は失格の烙印を押された選手たちがビジャレアルで息を吹き返し、無名だったセナやゴンサロ・ロドリゲスは代表クラスへと成長を遂げた。

 ロッチがやって来て、ビジャレアルのすべてが変わった。かつては近所のバレンシアかバルサやマドリーを応援していた村人たちも、いまではイエローサブマリンに夢中になっている。その中でもクラブの成功をいちばん喜んでいるのは、フォントという21歳の青年かもしれない。

 「お爺さんが大昔ビジャレアルでプレーしていたんで、自然とファンになりました。いつも試合を観に行って、アウェーも50人くらいの仲間とバスで駆けつけていたんですよ。ホームはいつも1500人くらいでしたねえ」

 '98年、クラブが史上初の1部昇格を決めたとき、フォント少年は係員の制止を振り切ってピッチへと飛び込んだ。その少年がいまでは客席ではなくピッチで大活躍している。そう、リール戦で価値ある決勝点をアシストしたエクトル・フォントその人なのだ。

 「ええ、あのとき僕はバレンシアの下部組織にいたんです。その後、地元ビジャレアルに移って、いまではすっかり強くなったトップチームで試合に出ているんですよ。こんなに幸せなことってないですよね」

 U-21代表にも名を連ねる有望株は、満面の笑みを浮かべるのであった。

 ロッチが大きくしたクラブを、上昇気流に乗せたのが'04年に就任したマヌエル・ぺジェグリーニという監督だ。

 「わたしはいつも破壊ではなく、創造するサッカーをやってきた。例えばマンマークをつけたり、意図的な反則を繰り返して敵の攻撃を封じようとするチームがあるが、そんなものは退屈極まりない。とてもじゃないが、お金を払っても見ようとは思わない」

 チリからやって来た指揮官は、自信満々に持論を展開する。就任1年目にして国内リーグ3位という仰天の結果を残し、今シーズンは初体験のチャンピオンズリーグでベスト16に進出と、その実績は文句のつけようがない。

 「現役引退後、わたしはイタリアやイングランドでヨーロッパの指導法を学んだ。ミランでゾーンプレスを確立したサッキ、トータルフットボールを創造したオランダのミケルスには大いに影響された。'74年W杯西ドイツ大会のオランダは、優勝した西ドイツよりも強い印象を受けた。それだけミケルスが偉大だったということだ」

 ぺジェグリーニは攻撃的なサッカーを信奉するが、ビジャレアルにおいてそのカギを握るのがリケルメである。

(以下、Number647号へ)

マヌエル・ペジェグリーニ
ビジャレアル

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