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藤井聡太が保持・棋聖戦賞金が“5000万円に増額”も王将戦は…「低迷の新聞業界。協賛金に重きを置くべきか」棋士が見る“主催者問題”の背景
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田丸昇Noboru Tamaru
photograph byKeiji Ishikawa
posted2025/04/27 06:02

藤井聡太王将と永瀬拓矢九段が対戦した2024年度の王将戦。今年度からは「日本将棋連盟」の単独主催となった
東京日日新聞と大阪毎日新聞(ともに毎日新聞社の前身)は、戦前の1935(昭和10)年に実力制の将棋名人戦を創設した。その後、戦後の1949年に日本将棋連盟(以下、連盟)と毎日の契約金交渉が決裂し、名人戦は朝日新聞社に移行した。
それから25年たった1974年12月。囲碁団体の日本棋院(以下、棋院)は、囲碁名人戦を主催してきた読売新聞社に契約解除を突如通告。棋院は朝日と名人戦の契約を結んだ。契約金は3倍以上の1億1000万円だった。棋院は契約金の増額になかなか応じない読売を見限ったのだ。ただ棋戦契約を一方的に打ち切った前例はなく、読売は棋院と朝日の契約無効を訴えて提訴した。
囲碁界の契約金問題は将棋界にも飛び火した。連盟は将棋名人戦(当時の契約金は3300万円)を主催してきた朝日に対して、囲碁名人戦と同額にするように要求した。そして囲碁名人戦と同額で契約した。
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読売はやがて棋院と和解した。囲碁界の最高棋戦として「棋聖戦」を創設し、契約金は名人戦を上回る1億6000万円だった。
囲碁棋聖戦の1億6000万円と同額要求、しかし…
連盟は「将棋と囲碁は同格」という観点から、朝日に対して囲碁名人戦と同額の契約金を要求した。しかし朝日の回答額は1億2000万円で、以降の連盟との交渉は行き詰まった。
田丸は当時、若手棋士の五段だった。私を含めて多くの棋士が理事会の強気な姿勢に共感したのは、名人戦の契約金が長年にわたって抑えられてきた不満が根底にあった。
連盟はその後、要求額を少し下げたが朝日と妥結に至らず、1976年7月に朝日との契約解除を発表した。芹沢博文八段(当時)はそんな顛末について、随筆で《暴挙といわれますが、朝日と手が切れました。我々の身勝手な行動を許してください。将棋指しはやっと男になれたのです》と綴った。
連盟は決裂後も、名人戦主催の優先権は朝日に置いたものの進展はなかった。そこで読売新聞社(当時は竜王戦の前身の十段戦を主催)に打診したが断られた。囲碁名人戦を朝日に取られた報復のように思われるのを嫌ったのだ。こうして名人戦の契約は宙に浮き、連盟の自主運営になりかねない事態となった。
存続が危ぶまれた王将戦…葛藤の中で生き延びた
そんな状況で連盟副会長の大山康晴九段(当時)は、古巣の毎日新聞社に話を持ち込んだ。