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41歳精巣がんで死去…MFレアンドロ・ドミンゲスは「天才肌だが汗をかけた」「彼と確執があったわけでは」恩師ネルシーニョも沈痛〈柏でJ1制覇〉
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沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byTakuya Sugiyama
posted2025/04/03 17:01

「レドミ」の愛称で愛されたレアンドロ・ドミンゲス。柏レイソルを優勝に導き、2011年のJリーグMVPに輝く以外にも各クラブで鮮やかなプレーを見せた
「どんなタイミングでも、どんな角度にでもパスを出せるから、FWは自分の好きな形で動き出せばいい。すると、絶妙なラストパスが出てくる」
このように評していた。また、やはり柏で彼と右サイドでコンビを組んだ右サイドバックの酒井宏樹も……。
「試合中にパスがずれると、必ず直後に『こう動いてほしかったんだ』 と伝えてくれた。そのお陰で、試合中に自分の動きを修正することができた」
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彼と一緒にプレーしたことで酒井は才能を開花させ、後にマルセイユや日本代表で活躍するほどの選手に成長した、と言われている。
天才肌でありながら、汗をかくことを…
あらためて、ネルシーニョの言葉を織り交ぜながら――ドミンゲスのフットボーラーとしての足跡を振り返りたい。
1983年8月24日、ブラジル北東部の中都市で生まれた。叔父が元プロ選手で、彼が経営するスクールで練習を積んだ。12歳のとき、サルバドールに本拠を置くヴィトリアのU-13のテストを受けて合格した。17歳でプロ契約を結び、トップチームからデビューしたが、しばらくは出場機会が増えなかった。04年にブラジル1部で24試合に出場して5得点をあげたもののチームは2部へ降格し、翌年には3部に落ちてしまう。しかし06年、初めてレギュラーとなり、2部復帰へ貢献した。
この活躍が認められて2007年に強豪クルゼイロへ移籍し、ブラジル1部で23試合に出場して7得点6アシスト。その後、名門フルミネンセへ貸し出された後、2009年4月、古巣ヴィトリアへ復帰した。
そして2010年1月、当時J2に沈んでいた柏へ。
監督はネルシーニョで、その前年7月から指揮を執っていたが、降格を回避できなかった。ドミンゲス入団の経緯について、ネルシーニョはこう語る。
「彼とは、ブラジルで何度か対戦していた。非常にクレバーな選手で、常に状況に応じたプレーができる。天才肌でありながら、汗をかくことも厭わない。1年でJ1へ復帰し、なおかつJ1で優勝を狙うために絶対に必要な選手だと考え、クラブ幹部に獲得を要請した」
ネルシーニョからの誘いと、フランサらのサポート
一方、ドミンゲスは以下のように述懐していた。
「2009年にヴィトリアで好調で、(ブラジル屈指の強豪)コリンチャンスからオファーを受けていた。ほとんど移籍が決まりかけていたが、柏に提示された条件が良かったので、日本行きを決めた」
「ブラジルのビッグクラブの監督を歴任した経歴を持つ名将から誘われたことも、この決断を後押しした」
ただし「日本とJリーグについて、何の予備知識もなく柏に入団した」こともあってか、当初は適応に苦労したようだ。