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日本一から一転→西武会長から“ある電話”…激動期のライオンズを率いた伊東勤の告白「フロントとの関係がこじれて…」監督退任に“2つの事実” 

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伊東勤

伊東勤Tsutomu Ito

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posted2025/03/01 11:02

日本一から一転→西武会長から“ある電話”…激動期のライオンズを率いた伊東勤の告白「フロントとの関係がこじれて…」監督退任に“2つの事実”<Number Web> photograph by JIJI PRESS

2007年、シーズン限りでの退任を表明した西武の伊東勤監督

 2005年には涌井秀章、片岡易之(保幸)が、2006年には炭谷銀仁朗が、2007年には岸孝之が加わり、投手陣も含め、世代交代の過渡期にありました。

 こうして当時の選手たちを振り返ると、そのあとの長い間、一線級の選手として活躍した、あるいは現在もなお活躍している選手たちが多いことに気づきます。それぞれ若い頃の厳しい練習を、しっかりと自分の財産にできたのだろうと思います。

 私は、ある程度「こいつだ」と思った選手には、投資だと思ってしっかりと試合に出すことを意識していました。中途半端が一番嫌だったので、自分の中で決めたら、何があってもまずは我慢して、この選手を使い続けようと思っていました。やっぱり、大概の選手は1年間一軍で使い続けていると、どんどん良くなってくるものです。

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 ただ、1年が終わって次の年。今度はその伸びた地点がスタートラインだと、こちらは思っているわけなのです。そこから普通はこう伸びるだろうと計算するし、期待もしているのですが、年が明けたら、現状維持すらままならず大きく後退しているという選手もたまにいます。「冬の間、何をしていたんだ?」と、首をかしげたくなるような……。内心ではガックリしていますが、まあそういう選手はそこから焦っても、なかなか巻き返せず、逆に前年悔しい思いをした選手が抜き去っていくことになります。私も、そういうケースは早い段階で見切りを付けました。

「私とフロントの関係が…」監督解任に“2つの事実”

 2005年は優勝したロッテからは大きく水を空けられ3位に。

 2006年は最後の最後まで日本ハムと1位争いを繰り広げましたが、最後はわずか1ゲーム差で2位に終わりました。ともにプレーオフでは、ファーストステージで敗退してしまいました。

 そのオフ、エース松坂大輔がボストン・レッドソックスへ移籍。涌井を中心に残った選手たちも頑張りましたが、やはり大エースの抜けた穴は大きいものがありました。

 エースの日は勝てるという信頼がチームにありますから、安心して力を出せる。エースがいるから大連敗しないで済むというのもあります。

 事実、この2007年シーズンは、今まで経験したことのない10連敗に見舞われたこともあり、また主力の故障も多く、リーグ戦は5位に沈みました。いわゆる借金は10。まさにあの大連敗さえなければ……と悔やまれるシーズンでした。

 就任後初めてのBクラスで、この年からセ・パ両リーグで導入されることになったクライマックスシリーズには出場できませんでした。

 しかし、経験を積んできた若い選手たちが力を発揮できる状態にはなってきていましたから、来年は絶対に優勝争いができる。勝負になる。そういう思いでチームを見ていました。

 実際その「来年」、選手たちは躍動し、日本一になりましたが、残念ながらチームの指揮を執ったのは私ではなく、渡辺久信監督でした。

 私は、2007年の最終戦を最後に、長年着続けた西武ライオンズのユニフォームを脱ぐことになりました。

 成績が不振であった――これは事実です。

 私とフロントの関係がこじれてしまっていた――これも事実でした。

【次ページ】 「監督は、根っこの部分で孤独」

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