甲子園の風BACK NUMBER
〈消えた天才〉大阪桐蔭・中田翔を泣かせた「甲子園史上最高のセカンド」地獄の時間で守備職人→センバツ優勝も…1年経たず早大中退していた
text by

間淳Jun Aida
photograph byKyodo News
posted2025/02/25 11:00

常葉菊川時代の町田友潤さんは「甲子園史上最高の二塁手」との異名を取った
2回1死一、二塁から大きく弾んだ打球をショートバウンドで合わせて、体を反転させて素早く二塁に送球してアウトにした。反転した時はセカンドベースの位置が全く分からなかったが、これまで練習してきた感覚を信じて送球したという。
町田さんが聖地に立つと、不思議と大事な場面で打球が飛んできた。そして、相手のチャンスの芽を摘む守備で球場を沸かせた。だが、周囲の驚きとは対照的に町田さんやチームメートは冷静だったという。
「難しい打球が多いなとは感じていましたし、結果的には自分が持っている力以上を甲子園で出せたと思っています。ただ、普段通りのプレーができているという気持ちでした。日頃の練習で同じような守備をしてきたので、チームメートも特別びっくりしていなかったです」
もともとは打撃がウリ…中田翔から殊勲打も
ADVERTISEMENT
神懸かっているように見えた町田さんの守備は常葉菊川にとって、いつもと変わらない光景だった。決して特別ではなく、普段通りのプレーを大舞台でも披露しただけだったのだ。中には、高校を卒業して初めて、自分たちの守備力の高さを知る選手もいたという。町田さんは「大学や社会人の野球部に進んでから、菊川の内野陣は上手かったんだなと実感したチームメートもいました」と話す。
実は常葉菊川入学当時、町田さんは打撃をウリにする選手だった。例えば07年のセンバツ準々決勝、大阪桐蔭戦の8回に同点タイムリーを放ち、2-1の勝利に貢献した。なお町田が対戦した投手の名は、中田翔。試合後、中田が涙にくれる姿も話題となった。
その一方、守備では中学時代からショートを守っていたが、苦手意識があったという。小学生の頃はソフトボールとサッカーの“二刀流”で、中学生で所属していたシニアのチームも強豪ではなかった。
「常葉菊川に入学していなかったら、間違いなく守備で注目される選手にはなっていなかったですね。あのノックが全てでした。中学生の頃は自分には無縁と思っていたので、テレビで甲子園もほとんど見たことがないくらいの選手でしたから」
あのノック――。町田さんが充実感としんどさの交錯した表情で振り返ったのは、当時監督を務めていた森下知幸さんのノックだった。そのノックは「芸術」とも言われ、森下さんのノック目当てに球場やグラウンドを訪れる指導者もいたほどだ。
地獄の時間から「守備に自信が持てるように」
町田さんが常葉菊川に入学した年の夏、チームは静岡大会で初戦敗退した。このタイミングで新チームがスタートし、町田さんはセカンドでレギュラーとなる。公式戦は秋季大会までない。長い夏休みは守備を強化する“地獄の時間”となった。