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非業の死から2年…いま明かされる『村田兆治という生き方』“不可解な死の真相”を真っ向から否定する著者が綴った“サンデー兆治”との35年
text by
鷲田康Yasushi Washida
photograph byKYODO
posted2024/12/09 18:20
マサカリ投法で通算215勝をあげたロッテ・村田兆治。2005年に野球殿堂入り。2022年11月に自宅から出火し亡くなった
《焼酎を患部に塗り込んで行うマッサージやマムシの毒を使う治療法もあったが、何の効果も見られなかった。焦る気持ちを鎮めるために、和歌山県白浜町のお水場・十九渕で坐禅を組み、深夜に白衣をまとって滝に打たれたこともあった。何か苦境を脱するヒントになるものがあるかもしれないと思い立ち、宮本武蔵の『五輪書』を貪るように読んだこともあった》
藁にもすがる気持ちで渡米し、フランク・ジョーブ博士の手で「トミー・ジョン手術」を受けたのが83年だった。まだ現在のように「トミー・ジョン手術」が一般的ではなく、肘にメスを入れることに抵抗があった時代だ。それでも村田さんの決断が、のちの同手術によるマウンド復帰の先駆者的な役割を果たすことになった。
85年に見事に“サンデー兆治”として復活を果たした村田さんは、89年5月13日の日本ハム戦で通算200勝を達成。この年はわずか7勝にもかかわらず、シーズン通算で22試合に先発して16完投(3完封)、防御率2.50で3度目の最優秀防御率のタイトルに輝くなど、手術から復帰後、最も投球内容の良かったシーズンでもあった。
還暦を過ぎてもマサカリ投法で140km超え
現役時代に厚い信頼関係を築いた結果、引退後も三浦さんは村田さんがライフワークとしていた「離島甲子園」のサポート役として関係を深めていくことになる。
村田さんといえば、マサカリ投法で還暦を過ぎてもなお140kmを超えるストレートを投げ込む姿が野球ファンの記憶には深く刻まれているはずだ。
「離島甲子園」と共に、引退後は講演会や野球教室で全国を飛び回っていたが、野球教室の最後には必ずマサカリ投法の実演で集まった人々の感嘆の声を集めるのがお決まりだった。そのために村田さんは球場入りすると入念にウォーミングアップとキャッチボールを行い、最後はバックネット前から右翼ポール際まで約90メートルの遠投もこなしていた。現役を引退して20年以上が経っても、両足を広げて座ると胸がべったりと地面につく身体の柔らかさを維持して、体重も現役時代と同じ78kgをキープしていた。
厳しい自己管理があったからこそ、60歳を過ぎてもなお、あのダイナミックな投法で、あの球速を維持できていたのである。決してスマートではない。それでもそんな不器用で愚直な物事への取り組みは、グラウンド上だけでなく、ライフワークの「離島甲子園」を全国規模の大きな大会へと育てることにつながっていく。
志半ばでの非業の死
「離島甲子園」からは現在3人のプロ野球選手が誕生している。
その1人目が三浦さんの出身高校の佐渡高校から桐蔭横浜大を経て巨人入りした菊地大稀投手だった。
三浦さんの後輩のプロ入りを村田さんはすごく喜んでくれた。
「環境に恵まれない島の子でも、頑張っていれば夢が現実になるんだよ。これからもプロが誕生するのが楽しみだよ」
22年に佐渡で開催された「離島甲子園」の全国大会で、村田さんは三浦さんにこう語って目を輝かせたという。もっともっと全国の島からプロ野球選手を誕生させる。それが村田さんの「人生というマウンド」での決意だったはずだ。
志半ばでの非業の死。この本からは村田さんのそんな無念な思いが、確かに伝わってくる。