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「もし反発したら、外すわ」なぜ全日本女子プロレスには“25歳定年制”が存在した? あのビューティ・ペアさえ引退に追い込まれた“独特の掟”
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by東京スポーツ/アフロ
posted2024/12/02 17:01
1970年代後半に一世を風靡したビューティ・ペア
ビューティ・ペアでさえ引退に追い込まれた
団体に「旬が過ぎた」と判断され、WWWA世界王座陥落とともに引退に追い込まれる。その代表的な例が、全女が生んだ最大のスターのひとり、ジャッキー佐藤だ。
70年代後半にビューティ・ペアとして一世を風靡したジャッキー佐藤は、パートナーのマキ上田と比べても圧倒的な人気を誇っていたが、79年2月にマキが引退しビューティ・ペアが解散すると、ファンにひとつの時代が終わったと判断されたか、ジャッキーの人気も急落。全女の観客動員も見る見る落ちていった。
ここで松永兄弟は「ジャッキーは旬がすぎた」と判断し見切りをつけ、世代交代を図る。81年2月25日横浜文化体育館で、WWWA世界シングル王者のジャッキー佐藤に、19歳の新鋭である横田利美(ジャガー横田)を挑戦させた。
この全女最高峰のタイトル戦は、全女用語で言うところのピストル。つまり押さえ込みルールによる真剣勝負で行われ、横田がジャッキーを完璧に押さえ込んでスリーカウントのピンフォール勝ち。王座陥落したジャッキーは、それまでいちばん大きく載っていた興行ポスターの写真も小さく掲載されるようになり、タイトル戦の3カ月後に引退。盛大な引退式もなく静かに全女を去っていった。
「当時は誰が辞めても『ああ、これでこの給料払わなくてよくなった』みたいな感じで、まったく気にしてなかったんです。ある意味でドライですよね。会社にとってはいてほしくないわけです。給料は高いし、ベテランがトップを張っていると若い選手が出てきにくくなってしまうから」(ロッシー小川)
このように、どんなスター選手でも新陳代謝のために25歳前後、キャリア10年未満でリングを去っていたかつての全女。『放浪記』で知られる小説家の林芙美子が色紙などに好んで書いた短詩、「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」を体現していたのが、全女のレスラーたちだったのである。
現役を続行したブル中野
しかし、武藤敬司などが「この世界、10年やって一人前」と語るように、プロレスラーとして円熟味が増していく時期に半ば強制的に辞めさせてしまったのは、あまりにももったいないようにも思える。この点についてロッシー小川は、「クラッシュ・ギャルズより前の時代は、複雑な試合内容は求められなかった」と証言する。
「当時の試合は、1年目の新人も3年目のメインイベンターもクオリティにたいして差はなかったんですよ。プロレスって蓄積されて生まれるものってあるじゃないですか。キャリアを増すことによって、プロレスがわかってくるからリードもできるようになるし、試合内容に深みが生まれる。でも、昔はその必要がなかったんです」
全女において試合内容がとくに重要視されるようになったのは、クラッシュ・ギャルズ時代以降。さらに90年代に入り、ブル中野とアジャコングの抗争などで、観客の中心が男性のプロレスマニアに移ってからは、その傾向がより顕著になっていった。そしてこの時代から、「25歳定年制」も自然と消滅していく。