近鉄を過ぎ去ったトルネードBACK NUMBER
野茂英雄が監督と“衝突”「300球投げなアカン」「またそんな話ですか?」メジャー挑戦の1年前“近鉄で起きていた事件”「露骨にイヤな顔を…」
text by
喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2024/05/02 11:02
握手を交わす野茂英雄と鈴木啓示監督の名投手ふたり。近鉄最終年の1994年、取材していた番記者が見たのは…
当時の監督は、近鉄一筋20年、通算317勝のレジェンド・鈴木啓示だった。
担当の引き継ぎで、先輩記者に連れられて挨拶に出向くと「おー、プロ野球担当は初めてなんか? 何でもワシに聞いてくれ」。1m81cmの長身、分厚い胸板、そしてよく通る大きな声のすべてに、圧倒される思いだった。それでも新米だろうが、旧知のベテラン記者だろうが、分け隔てすることなく、丁寧に質問に答えてくれた。
「野球ってのはな、ちゃんとユニホームを着て、スパイクを履いてやるもんなんや」
2月とはいえ、盛夏のようなサイパンだ。しかし鈴木は、ウォーミングアップからユニホームの上下をきっちり着用し、スパイクも履くという“フル装備”を命じたのだ。
質より量が問われた時代
2020年代の今なら、暑さ対策としてそれこそTシャツとハーフパンツでのアップでも、容認されそうなものだ。そして、いくら自主トレで体を作ってきたとはいえ、いきなりのスパイクの使用は足への負荷が大きく、故障の原因にもつながりかねない。それこそ今の高校球児だって練習開始時点でスパイクを履いたりしないだろう。
しかし、1990年代は今のような科学的なトレーニングの概念からは、まだまだ程遠い時代でもあった。キャンプでは徹底的に走り込んで下半身を作る。投手はブルペンで何百球と投げ込み、打者も何百回とバットを振り、ノックを受ける。質よりも量、それこそへとへとになるまで、滝のような汗を流し、体をいじめ抜くのが当然だと見なされていた。
シャリ、シャリ。
アップからスパイクで土を蹴る音が聞こえる。その大集団の中で野茂英雄は、何食わぬ顔をして、アップシューズで走っていた。
すれ違う名投手2人の考え
それは、裏を返せば、監督の指令をエースが無視したという図式にもなる。