近鉄を過ぎ去ったトルネードBACK NUMBER
野茂英雄が監督と“衝突”「300球投げなアカン」「またそんな話ですか?」メジャー挑戦の1年前“近鉄で起きていた事件”「露骨にイヤな顔を…」
text by
喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2024/05/02 11:02
握手を交わす野茂英雄と鈴木啓示監督の名投手ふたり。近鉄最終年の1994年、取材していた番記者が見たのは…
プロ通算317勝の鉄腕・鈴木には、諦めない不屈の姿勢を表す「草魂」というフレーズが定着していた。人の足で踏まれても、再びコンクリートの割れ目から這い出てくる雑草のたくましさを、その造語に込めた鈴木のポリシーは、一時代前、いや二時代前の“昭和の野球イズム”そのものだった。
発する言葉にも、根性論、精神論の比重が大きかったのも確かだ。投手は、投げてなんぼや。もっと投げろ。もっと練習しないと、この先、すぐにアカンようになる。鈴木の持論とその方針に対して、自らの主張を譲らず、その行動で“反発”したのが野茂だった。
投手の肩は消耗品vs.投げなアカン
投手の肩は消耗品。その頃から、すでにメジャーの常識になっていたコンセプトが、野茂の“行動の前提”だった。その年、2月7日まで行われたサイパンでの1次キャンプ中、前年からの右肩コンディション不良を理由に、野茂はブルペンには一度も入らなかった。2次キャンプの宮崎・日向でも、ブルペンでの初投げはキャンプ終盤に入った2月20日のことだった。
「試合で100球投げるのには、ブルペンで200球、300球と投げなアカン。それくらい投げて、体に覚え込まさんとアカン。それくらい投げて、初めて試合と同じくらいや」
キャンプ中、全投手の投げ込み数を表にして、選手たちにも分かるように貼り出されていたのは、鈴木の方針だった。現役時代、キャンプのブルペンで300球近く投げることもあったという経験談も、私たち番記者に語ってくれた。それは野茂のやり方への批判にも聞こえた。監督とエースの度重なる“衝突”は、取材する側にとっては、申し訳ないが、まさしく格好のネタだった。
またそんな話ですか?
「監督がこう言ったけど、どう思う?」
「またそんな話ですか?」
野茂には、露骨にイヤな顔をされた。しかし、言葉が少なくとも、ノーコメントであろうと、嫌がっているという反応で原稿を書く。野茂にしてみれば、たまったものじゃないだろう。プロ野球記者1年目の私は、まるでマッチポンプのごとく、指揮官とエースの“ややこしいもめ事”を捻り出し、そのことを綴って、日々の仕事をしのいでいたのだ。
自省を込めていえば、野球の本質からは完全にそれていた。
とはいえ、永遠に交わらないであろう2人の関係性そのままに、1994年のシーズンが推移していくことになるのも、また必然の流れでもあった。
<つづく>