オリンピックPRESSBACK NUMBER
高校生で世界新記録→大学で大スランプに…競泳界の《消えた天才》山口観弘が告白する“黄金世代”の苦悩「大也や公介の活躍は嬉しかったけど…」
text by
田坂友暁Tomoaki Tasaka
photograph by(L)JIJI PRESS、(R)Yuki Suenaga
posted2024/02/25 11:01
高3時に世界記録をマークした翌年には日本選手権も初制覇した山口。一方で、その後は長いスランプに陥ることになる
世界記録を出すことも、もちろんひとつの目標ではあった。だが、それ自体がモチベーションになっていたわけではなかった。あくまで山口が目指していたのは、「五輪で北島康介と一緒に泳ぎ、直接対決で勝つこと」。世界記録は、それに必要な要素というだけだった。
だから、リオ五輪の選考会を兼ねた2016年の日本選手権で敗れた北島が引退を表明したとき、自分の心にポッカリと穴が空いたのが分かった。山口のこの日本選手権での結果は、100m平泳ぎで1分00秒97の7位。200mでは、2分13秒11の19位で予選敗退。最後は、隣に立つことすら叶わなかった。
どんなに苦しくても、北島がいたから頑張れた。北島と戦い、勝ちたいという思いだけで、痛みに耐えて踏み留まってきた。そのゴールがいなくなった。
山口もちょうど大学4年生で卒業を迎える年齢になり、ひと区切りをつけるには最高のタイミングでもあった。
「競技者としての山口観弘は、もうこの時にほとんど消えていたのかもしれません」
ただ、山口はここで立ち止まることなく早々に次への一歩を踏み出した。もうひとつ、競技成績とは別ベクトルのモチベーションがあったからだ。
「指導者になることでした。高校生のときに志布志DCで子どもたちを指導しているとき、すごく楽しかったんですよ。『子どもたちをどうやって速くしよう、どうやったら強くなるんだろう』……そんなことを考えながら指導して、子どもたちが結果を出したときは本当にうれしかった。そのときから『指導者になりたい』という気持ちはあったんだと思います」
指導者になるため…自分を実験台にさまざまなトレーニングを
大学での4年間は、志布志で練習していたときのように自分で練習メニューを考え、自ら試行錯誤して水泳と向き合うことができなかった。
ならば、卒業後はもう一度自分のやりたい練習をしてみよう。自分がやりたいコーチングのため、自分を実験台にしながら次のキャリアに生かそう。そう考えたのである。
「卒業後、練習を見てくださったのが石松正考コーチでした。こうしてみたいとか、こうしたほうが良いとか、石松コーチとは常にいろいろと話し合いながら取り組みました。今も迷ったことがあったら相談することもあります。
この期間は本当に学びが多かったですし、今のコーチングにも生きています。ここで一緒に取り組んでくださった石松コーチには、本当に感謝しています」
結果、山口は2021年の日本選手権まで競技を続けた。最後の日本選手権の成績は、100m平泳ぎで1分02秒01、順位は予選28位。世界の頂点に立った男の競技人生の幕が下りた瞬間だった。
<次回へつづく>